ここ一年、婚約にまつわる事柄において、アレスの周囲では騒ぎが巻き起こっていた。
「国王の婚約者があの令嬢であることはまかりならん」と、アレスの忠臣たちが声高に叫んだからである。
よって、アレスはうんざりしきった毎日を送っていたのだが、やっと今日という日にこぎつけることができた。
なによりも可愛くて愛しい婚約者との、幸せに満ちた結婚式の当日である。
純白のドレスに身を包んだエルサが、頬を赤らめ瞳を潤ませながらこちらを見上げ、初々しいくちびるをゆるめてこの上なく愛らしく微笑んだ瞬間、アレスは至上の幸福という言葉を体中で噛み締めた。
そのときエルサの左側には、カストルという名の小舅が付き添っていたのだが、アレスの視界には彼の姿は完全に削除されていた。
おそらくカストルも同じような状態だっただろう。
こういった場合、お互いの姿を頑なに視界に入れないということは、お互いのためでもあるのだ。
一年と少し前、エルサが目覚めたあとに、アレスは彼女と婚約するということを身近な関係者に告げた。
いろいろあったからだろう、セーレ側からは、反対意見は出なかった。
ロキは妹の幸せを喜び、ルイスは心より感銘を受けた様子で、そしてカストルは、苦虫を噛み潰したような顔をしながらも(そして若干涙ぐみながらも)「エルサを泣かせたら承知しないからな……!!」と、シスコン魂の入りまくった語調で、エルサをもらい受けることを許可してくれた。
問題は王城側のほうであった。
貴族議会はもともとセーレに寄った者たちが多かったので、おおむね賛成の意を示した。
反対したのは宰相位のジジイどもで、「大逆犯の妹を奥方にするなど!」やら、「魔術を持たない妃など!」やら、「他国の姫君を貰い受けたほうが外交的に有利に!」やら、アレスがエルサに向ける愛情などこれっぽっちも考慮しない、無粋極まる意見でもって、大反対の大合唱であった。
「おまえたちの意見は、わからないでもないが」
アレスは、湧き上がる焦ったさを堪えながら、辛抱強く忠臣どもに言い聞かせた。
「俺は常々おまえたちに告げていただろう。自分の嫁は、政治で選ばぬと。
俺の妻は俺が愛する女だ。それ以外はありえぬ。エルサ・セーレ以外に俺の花嫁はいない。
おまえたちの意見は王国のためを思ってのことだろうが、俺がエルサを愛しているというだけでなく、エルサ以上に王妃の器を持つ女は、世界中を探してもどこにもいない。
だからこそ、おまえたちの意見を受け入れることはできない」
アレスの宣言に、忠臣たちはうなだれた。
それでも彼らは、反対意見をチラチラぶつぶつと奏上してきたが、アレスはすべてを一蹴した。
その様子を面白がって見ていたのは兄のマルスで、カストルに至っては、「あのようなわけのわからんジジイどもの闊歩する王城になど、エルサはやれん!!」などと激怒する始末であった。
ストレス満載の日々の中、アレスの心の清涼剤は、言うまでもなくエルサの存在だった。
一連の事件を経て、エルサは自分自身を見つめ直し、『嘆きの魔女』の鎖から解かれ、そして自由を獲得した。
いつも兄たちの背中に隠れて沈黙していた少女は、紫色の瞳をまっすぐにアレスに向けて、可憐な、そして明瞭な声で言うのだ。
「反対意見があったとしても、わたしはアレス様のおそばにいたいです」
エルサが愛の言葉を伝えてくれるたび、アレスは彼女を抱きしめずにはいられなかった。
その上彼女からはいつも甘い香りがして、やわらかく温かな体をしていたから、自分の劣情と必死に戦わなければならなかった。
(婚姻を結ぶまで、口づけ以上のことをしてはならない)
大切に、大切に、彼女を扱わなくてはならない。
なにしろ相手はエルサなのだ。
あの鉄壁の男カストルが、周到に囲い込みまくっていた生粋の箱入り娘なのだ。
男の愚かな獣っぷりなど、エルサは一瞬でも想像したことはないだろう。
そんな彼女を怖がらせたり、怯えさせたりするわけにはいかない。
万が一カストルに事態を悟られたら目も当てられない。
以前したような大喧嘩は、エルサの心を手に入れたいまとなってはご免こうむりたい。
こちらの心中など知る由もない純真なエルサは、
「宰相閣下の方々には、わたしのほうからもお話をさせてください」
と、健気なことを言って、あのジジイどもになんとか認めてもらうために努力しようとするのである。
アレスはエルサの頬に口づけて、「きみがそのようなことをする必要はないよ」とささやいた。
「妻を迎えるために王城内を整えることは、夫の仕事だ。
きみはフィアンセとして、こうして俺と二人きりで会って、俺を癒してくれればそれでいい」
エルサとの逢瀬の場所は、王城の庭園か、城塞の庭園がほとんどだった。
寒い季節には暖炉のある応接室に移動することもあったが、エルサが好むのは外だった。
長年城塞に閉じこもっていた過去が、エルサの心を外へと駆り立てるのだろう。
アレスはエルサが望む場所ならどこでもよかった。
さらに言えば、冬の屋外に出るときなどは、エルサを抱きくるんで密着する大義名分を、アレスは得ることができた。
なにしろアレスは、炎の魔術師なのだから。
「アレス様の腕の中はとっても暖かいです」
頬をピンク色に染めてそうささやくエルサは、恐ろしいほどに可憐だった。
またしてもアレスは、口づけ以上のことをしてはならないと、己に何度もなんども言い聞かせなければならない事態に陥ったものだった。
しかし、である。
しかし、その忍耐の日々は、本日で終わりを告げるのである。
宰相たちは、ここ半年で婚約に賛成するという態度に翻った。
アレスが懇々と説き続け、エルサが自らの言動でもって王妃の器としての強さと優しさを示し、セーレの兄弟、とりわけルイスが、王土守護のために、これまで以上に各地を飛び回り、その稀代の魔力を行使して、民たちに尽くした。
そういう経緯があって、ぶつぶつ言っていた宰相たちの態度が、少しずつ軟化したのである。
アレスの忍耐力は、ジジイどもの説得に費やされることも多かったが(カストルがことあるごとに爆発するのにもいい加減疲れていた)、それ以上に理性を試されたのはやはり禁欲方面であった。
自分の情けなさは言うまでもないが、とにかくエルサが可愛いのである。
試練を乗り越え、眠りから目覚め、一皮むけたようになったエルサは、恋人の欲目を取っ払っても、犯罪級に可憐なのである。
「良い結婚式だったな、アレス。エルサは本当に美しい花嫁だった」
式を終え、控え室に戻った彼女を渡り廊下で待っていると、マルスが声を掛けてきた。
アレスの従者のティムと、マルスの従者は、数歩離れた位置に控えている。
「それにしても、愛する我が弟の結婚式を前にして、私の目に涙が滲むほどだったよ。
おめでとう、アレス。おまえの幸福な結婚を心から祝おう」
「おまえの口から嫌味が一切出ないのは、むしろ不気味なくらいだな」
アレスの警戒に、マルスは微笑を返した。
「異なことを言うものだな、アレス。
私は純粋におまえの結婚を喜んでいると言うのに」
「不気味なことこの上ないが、礼は言っておくよ」
「いやいや、それには及ばんよ。ところでアレス。
おまえ、今夜、見届け人が寝所に立つことを禁じたという話は本当か?」
「それがおまえの本題だな」
アレスは、勝気に笑って腕を組んだ。
「当然だろう。エルサをどうしてほかの奴らに見せなきゃならない。
エルサは俺のものだ。
今日このときから、あの子の夜のすべては俺のものだ。
侍女だの聖職者だの宰相のジジイだのに見せてやるようなものはカケラもない」
「情熱的なのは結構だが、国王の褥(しとね)はちゃんと見張ってやらねば、最悪、国が傾く事態になりかねん。
ことに、寵妃の侍る褥は注意が必要だ。
いいか、アレス。
おまえの気持ちは痛いほどよくわかるが、おまえの独占欲と王国の安寧を秤に掛けて、傾くのはどちらだ?
王兄として、そして王国民の一人として、見届け人を置かぬというのは看過できん。
少なくとも、妃となった女が、その胸にもくろみを抱えてはいないということがはっきりと確定できるまでは、見届け人を置くべきだ」
「マルス、おまえ、国の大事に関わることであると言うならば、そのニヤニヤ笑いをいますぐに引っこめろ」
アレスは組んでいた腕をほどいて、マルスに挑発的な笑みを送った。
「大切な弟であるところの俺が妻を迎えて、寂しい気持ちを抱えているのはわかるさ。
これからは王事以外の時間を、最愛の妻を愛でるのにすべてを費やすことになるだろうが、おまえのこともちゃんと構ってあげるよ。
だから機嫌を直してくれ、敬愛する兄君よ」
「口が達者になったものだな、エロガキ。
色ボケた国王をなんとか諫めようとする兄の気持ちがわからないとは、なんとも嘆かわしい――」
「エルサはまだ控え室か?」
ふいに現れたカストル・セーレの姿に、双子の王族は固まった。
妹をこの上なく愛する『黄金の魔術師』筆頭は、式の余韻を赤い目元に残しながら、二人のもとへ歩み寄った。
「僕らもそろそろ城塞に戻ろうと思ってな。
帰り際にエルサの顔を見たかったんだが、着替えにはもう少しかかりそうなのか?」
結婚式の感想をあえて言わない理由は、彼の寂しさから来るものなのかもしれない。
やんわりとした口調でマルスが答えた。
「ご婦人のお着替えは時間がかかるものだからな。
よかったらゲストルームで待っているといい。
セーレ家の人数分、冷たい飲み物でも用意するよ」
「ああ、そうしてもらえるとありがたい。
ところでおまえたちはそうして並んでいるとそっくりだな。
同じ顔を突き合わせて、いったいなにを話し込んでいたんだ?」
「別になにも」
「特になにも」
アレスとマルスは同時にはぐらかした。
二人がさっきまで話していた内容は、カストルにとって地雷以外何物でもないからだ。
カストルは訝しげな表情になったが、頭の中はエルサのことでいっぱいのようで、「ゲストルームに行ってくる」とふらふら歩き去っていった。
その背中を見送ってから、二人は自嘲気味に息をついたのであった。