絨毯の上に落ちたカエルは、危うげなく着地したようだ。
「突然落とすなんてひどいじゃないか。
もう少しの時間だけ、可憐な乙女のやわらかな手の感触を味わっていたかったのに」
「ええと、あの、あなたは――」
人語を操るカエルの正体について、エルサは思い至った。
「あなたは、ロキ兄様に姿を変えられてしまったの?」
「魔術によって姿を変えられたのは確かだが、『ロキ兄様』の仕業ではないな」
後ろ脚でぴょんと飛んで、カエルは一歩エルサに近づいた。
「すぐそこの森で、湖面に映る三日月を眺めていたら、見知らぬ少女がうずくまって泣いているのを見つけたんだ」
でっぷりしたヒキガエルは、状況の説明を開始した。
「なにがあったのかと心配になり声を掛けたところ、振り向きざまに魔術を突然かけられて、気づいたらヒキガエルの姿になっていた。
慌ててあたりを見回したが、少女はあとかたもなく消えていたという顛末だ」
驚きで胸をまだどきどきさせながらも、カエルの言葉にエルサは注意を引かれた。
「そう、ちょうどきみのような年頃の少女だったかな。
いや、もう少し幼かったかもしれない」
「変身の魔術はとても高度なものなの。
セーレでも、完璧に操ることができるのはロキ兄様くらいよ」
「それについては俺も不可解だと思っている」
ヒキガエルが自分のことを俺と呼んだので、エルサの口元がゆるんだ。
このカエルが、愛らしく思えてきたのだ。
真面目な語調でカエルは続けた。
「俺自身、王国在住の魔術師の情報には長けていると自負しているんだが、変身の魔術を使う魔女に心当たりがない。
けれどいまもっとも問題なのは、この変身魔法を俺が自力で解くことができないということだ。
困ったことに、魔力をすっかり封印されてしまったんだよ」
黄土色のカエルの皮膚が、暖炉の火にちらちらと照らされている。
エルサは絨毯に両膝をついて、カエルを覗き込んだ。
「だからあなたはこの城塞に来たのね」
「おっしゃるとおりだ、お嬢さん。
かの高名な『黄金の魔術師』殿に変身魔術をすっかり解いていただきたく、こうして侵入したという次第さ」
「この部屋は、お兄様のお部屋ではないの」
エルサの表情が憂いを帯びる。
「ここはわたしの部屋なの。
わたしはエルサ。
セーレの娘だけれど、魔力を持っていないからあなたの力にはなれないの……ごめんなさい。
その代わり、あなたを連れて兄様のところに行き、変身魔術を解いてもらうようお願いすることはできるわ」
「それで充分だ。ありがとう、エルサ」
カエルは太い首を曲げて礼を取る仕草をした。
それがまた可愛くて、エルサの顔がほころぶ。
「あなたのお名前はなんていうの?」
「アレスだ。
好きなように呼んでくれて構わないよ」
「アレスさん。
あら、国王様と同じお名前なのね」
「なんのひねりもない、よくある名前さ」
国王の姿をエルサは一度も見たことがない。
しかし、彼の名前と年齢は――長兄のカストルと同じ二十五だったので――記憶していた。
ガウンを羽織り、エルサが両手を差し伸べると、カエルはぴょんと飛び跳ねてそこに収まった。
ひんやりした体を抱き上げて、手燭を持ちつつエルサは言う。
「本当は、わたしは外の人たちとお話をしてはいけないの。
カストル兄様に、厳しく言いつけられているのよ。
三人のお兄様たちと、使用人たちとしかお話ししていなくて……。
だから、おかしなお喋りの仕方をしてしまっていたらごめんなさい」
「おかしいだなんてとんでもない。
きみとの会話をさっきから俺はとても楽しんでいるよ。
それにしても、外の人間との会話を禁じるなど、きみの兄君は不当なことを命じるね。
まさか、城塞の外に一度も出たことがないということはないだろう?」
「一度も、ではないわ」
廊下に出ながらエルサは答えた。
手燭の灯りが闇を照らす。
「昔お城の舞踏会に、お兄様たちと一緒に出席したことだってあるの。
でもここ数年はずっと城塞にいるわ」
「外出していないのかい?
それも兄君の命令で?」
「ええ」
「それはいけない。
きみは若く健康な女の子なのだから、外に出て青春を謳歌するべきだ」
カストルの寝室は同じ階の東端にある。
長い廊下を、物音を立てないよう気をつけながらエルサは歩いていく。
変身魔法の解除は、ロキが得意とすることだ。
でも、彼は自由気ままで、一つのところにじっとしていない性格である。
いまごろは、梟(ふくろう)の姿に変身して、夜の森を散歩している真っ最中かもしれない。
二番目の兄ルイスは、急用で出掛けたきりまだ戻っていないようだった。
「カストル兄様は、理由もなくわたしに言いつけているわけではないのよ」
「正当な理由には明確な原因があるはずだよ」
カストルの部屋の前でエルサは立ち止まった。
扉の下の隙間から、灯りが漏れ出ている。
兄はまだ起きているようだ。
ノックをすると、「エルサか?」とカストルの声が返った。
「はい、そうです。
夜分にごめんなさい。
お兄様にお願いしたいことがあるの」
腕の中で、カエルがもぞもぞと動いた。
エルサが視線を落とすと、丸い目がじっとこちらを見つめている。
「エルサ。
きみが外に出られない明確な理由があるのなら、俺がそれを排除してあげるよ」
「排除?」
「俺の醜い姿を前にしても気味悪がらず、話を聞いてくれた。
その上、腕に抱いて助けてくれようとしてくれている。
きみは素敵な女の子だ。
エルサが城塞から出られた暁には、最初のエスコート役を俺に務めてさせてくれないか」
「エスコートだなんて」
あまりにも非現実的な申し出に、エルサは笑みをこぼした。
「ありがとう、アレスさん。
もしもそういう日が本当に来たら、そのときはよろしくお願いしますね」