「なんでもいいの?
どんなものも買ってくれるの?」
今日、アイリスが無意識に攻撃魔術を行使してしまった理由は、強い孤独感のせいだ。
寂しさを少しでも癒すことができれば、力を抑制させることができるかもしれない。
「なんでもいいよ。
なにが欲しい?」
「あのね……」
アイリスは、もじもじしながら言った。
「アイスクリームが食べたい」
「アイスクリーム?」
「うん。
昔、ママが一度だけ食べさせてくれたの。
白色のアイスクリーム。
夏でね、すごく暑くて、でもわたしは部屋から出られなかったから、お姉ちゃんたちみたいに涼みに行くこともできなくて。
暑い暑いってママに泣きついたら、買ってきてくれたの。
お姉ちゃんたちには内緒だよって」
庶民にとって、アイスクリームは贅沢な嗜好品だ。
大好きなは母親が、自分だけに買ってくれたお菓子に、アイリスは甘い味覚以上の幸せを感じたに違いない。
ルイスは思案した。
公爵家次男のルイスからしたらささやかなおねだりではあるが、いまは冬だ。
売っている店が見つかるかどうかわからない。
アイリスは、昔を懐かしむように瞳を潤ませた。
片方しか残っていない緑色の瞳が、エメラルドのようにきらきらと光る。
「甘くて、冷たくて、夢みたいに美味しかった。
また食べたいってずっと思ってたけど、それ以来一度も食べられたかったの。
もう一度食べられるなら、きっとすごく幸せだろうなぁ」
「じゃあ探しに行こう」
愛おしくなって、ルイスはアイリスの髪に口づけた。
「明日の朝迎えに来るよ。
アイスクリームを探しながら街を歩こう」
「うん」
アイリスは嬉しそうに笑った。
しかし、ふとなにかに気付いたように表情を曇らせる。
「街って、森を下ったところにある大きな街のこと?」
「そうだよ、王都だ。
アイリスは王都に住んでいたの?
それとも、近くの村?」
アイリスは無言でうつむいた。
答えたくないようだ。
ルイスは優しく聞いた。
「王都には行きたくない?」
アイリスは首を振る。
白い髪が揺れて、失われた右目が垣間見えた。
「大丈夫。……でも」
アイリスの小さな手が、ルイスのローブをつかむ。
弱々しい声で言った。
「行くときは、これを貸して。
フードを被って、白い髪も、右の目も、わたしの顔も、外から見えないようにして」
ルイスの腹の底から、歓喜がぞくりと湧き上がった。
片目の翠玉が、なにかに怯えるように潤みながら、ルイスを見上げた。
「わたしだと気づかれないように、ルイスのローブで誰の目からも隠して」
「ああ、わかったよ、アイリス」
ささやいて、アイリスの手に自身のそれを重ねた。
穢れた熱情が声に滲まないよう、細心の注意を払った。
元よりそのつもりだったと――そうする理由は、王城の手の者やカストルからアイリスを隠すためだったと、誰に聞かせるわけもなく言い訳をした。
アイリスは安堵の表情になった。
そして、無防備に笑った。
「ありがとう、ルイス」
瞬間ルイスは、ここに今夜泊まってはいけないことを悟った。
腹の下が熱く疼くのを、信じられない思いで自覚しながら、その衝動に身を任せてはいけないと己を強く律した。
もう帰っちゃうの、と寂しそうに言うアイリスに、明日の約束を再度告げて、ルイスは狩小屋を後にした。
翌朝は、寒いながらも晴天だった。
アイスクリームは、思いのほか簡単に見つかった。
上流階級の人間が出入りするような種類のカフェに、バニラアイスが売られていたのだ。
「強く焚いた暖炉の前でアイスを食べるというのが、ちょっとした娯楽なんだそうですよ」
陶器の器をテーブルに置きながら、店主は言った。
器に盛られた丸いバニラアイスを見て、アイリスは歓声を上げた。
フードの奥に隠れて見えないが、その目はさぞ輝いていることだろう。
「ですので、いまの時期でもアイスクリームは売れるんです。
食べ終わった後に、熱いコーヒーや紅茶を飲むのも乙なのだそうで。
お客様も、そうなさいますか?」
アイリスがうなずいたので、ルイスはアイリスの好きな紅茶をオーダーした。
店長は、ルイスの前にコーヒーを置きながら「承りました」とテーブルを離れていく。
飴色の木材で統一された店内に、客の影はまばらだ。
午前九時の時間帯なので、ほとんどの都民は仕事に出掛けているのだろう。
働く必要のない上流階級の人間は、この時間からやっと起き出したような頃だ。
「すごく美味しい。
頬が落ちそう」
一口食べて、アイリスがうっとりした声で言う。
ルイスは幸せな気持ちになった。
「ゆっくりお食べ。
お腹を壊すといけないからお代わりはなしだけど、また近いうちに連れてきてあげるからね」
「うん」
アイリスは夢中で食べている。
彼女の身をすっぽりと包んでいるのは、灰色のローブである。
黒地に金糸の刺繍が入っているローブは、一目で『黄金の魔術師』のものだとわかってしまう。
それに、アイリスにはサイズが大きすぎるため、新しい物をルイスが調達したのだ。
ルイスも今日はローブを着ないで、普段着用の三つ揃のスーツと外套を選んだ。
都民の中には、顔をよく見ればルイスだと気づく者もいるだろうが、そう多くない。気づかれたくないときは、ルイスたち兄弟は普段着で街へ下りるのが常だった。
店内に足を踏み入れると同時に、ルイスは四人の客たちに目を走らせている。
それぞれに朝のひととときを楽しんでいる者たちで、城砦の関係者はもちろん、国王配下の者は一人もいないことを確認済みだ。
「ルイスはアイスクリーム食べないの?」
スプーンを手にしたままアイリスは首を傾げる。
「僕は甘いものがあんまり得意じゃないんだ。
このコーヒーも、砂糖やミルクを入れてないんだよ」
「そうなの?
苦そう」
アイリスは顔をしかめた。ルイスは頬をほころばせる。
「アイリスは、コーヒーを飲むならいつもカフェオレだからね」
テーブル越しに手を伸ばして、フードから零れそうになっていた白髪をルイスは隠してやった。
指にふれた髪の感触に、劣情が湧くことはなかった。
人知れず、ルイスは安堵する。
きっと夜がいけないのだ。
三日月の夜は光量が少ない。
利己的な男の熱情を暴き立てる光が足りない。
だから、獣の本性が首をもたげるのだ。
朝の清浄な光の中では、それの付け入る隙がない。
アイリスの可愛い笑顔を、純粋な気持ちで見つめることができる。
これこそが、自分の望む穏やかな幸福なのだと、ルイスは感じた。
アイリスがアイスクリームを完食し、満足そうな表情で温かい紅茶も飲み終わった。
また来ることを約束し、ルイスとアイリスはカフェを出た。
路上は、買い物客らの話し声や、上流階級の者の乗る馬車の音で賑やかだ。
花売りの娘や靴磨きの少年が、時折声を掛けてくる。
声を掛けられるたびにアイリスが身を固くして怯えるので、何枚かの硬貨だけを彼らに渡して、ルイスはアイリスの手を取り歩道を進んだ。
「ネックレスは今日もちゃんとつけてる?」
アイリスはうなずいて、ローブの下から黒い片翼を引っ張り出した。
確認した後それを元に戻して、ルイスはアイリスにほほ笑んだ。
「ほかに欲しいアクセサリーはない?
ブレスレットやイヤリング、髪飾りや新しい服も、なんだってプレゼントするよ。
それとも、公園の噴水を見に行くかい?
薔薇園や、ボートに乗れる池もあるよ。
可愛い魚たちが泳いでいるんだ。
アイリスは生き物が好きだから、きっと気にいるよ」
「わたし――」
うつむきながら歩くアイリスは、店内で見せた様子とはガラリと違っていた。
なにかに怯えるように身を縮めて、ルイスの腕に縋りつくように自身の腕を巻きつけている。
王都に入るときは馬を使った。
乗馬は初めてというアイリスを前に乗せ、細い腰を抱くようにして座り、馬を走らせた。
動物好きのアイリスは喜んでいたが、王都に着いて人々が行き交うのを目にした途端、元気をなくしてしまった。
「わたし、狩小屋に帰りたい」
アイリスは、消え入りそうな声で呟いた。
「アイスクリームが食べたいだけだったの。
だから、もう帰る」
「本当にいいの?」
アイリスは小さくうなずいた。
王都に嫌な思い出があるのかもしれない。
もし、彼女が『嘆きの魔女』となった辛苦の元凶がここにあるのだとしたら、アイリスの言うとおりにしたほうがいいだろう。
アイリスにもっと楽しんでもらいたいという思いがあったのだが、ルイスは「なら帰ろうか」と彼女の背を促した。
馬は、森の方面にある料理屋の厩番(うまやばん)に預けてある。
厩は料理屋の裏手にあるので、路地を曲がり、ひとけのない道に差し掛かったときだった。
「ねえ、ちょっと、あんたアイリスじゃない!?」
年若い女の声だった。
アイリスの全身が、目に見えて強張った。
振り返ると、二十歳前後くらいの女がこちらに駆け寄ってきていた。
襟ぐりの深いワンピースを着て、胸の谷間と両肩を露出している。
一見して娼婦とわかる出で立ちだ。
ルイスがアイリスを見下ろすと、こちらの腕にしがみつくようにして固まっている。
「アイリス、彼女は知り合いかい?」
小声で尋ねると、アイリスはかろうじてうなずいた。
アイリスの知人が娼婦であるという事実に、ルイスは指先が冷える思いがした。