昼間は馬車で駆け、夜はホテルで泊まり、そうして進み続けること半月。
王太子一行は、その日の夕刻、ロジェ王国とウィールライト王国の国境、関所に辿り着いた。
(ついに、ここまで来たんだわ)
石造りの重厚な門構えを、フランセットは馬車の窓から見上げる。侍従らが手続きをすませると、幾重もある巨大な扉がゆっくりと引き上げられていった。
馬車が巨大な門をくぐり抜けていく。箱馬車の中に薄闇が張って、フランセットは心許ない気分になった。
「大丈夫?」
ふいに、メルヴィンの手が自分のそれに重ねられた。フランセットは気づかないうちに、座面に置いたてのひらを握り込んでいたのだ。
重ねられた温かさに、フランセットの胸の奥が痛くなる。思わず首を横に振りそうになるのを抑え込んで、フランセットはカーテンを閉めつつ、微笑みを浮かべた。
「大丈夫です。ありがとう」
「……ならよかった」
メルヴィンの笑みが、さらに優しくなった。カラ元気だと、気づかれたのかもしれない。
(結婚をして故郷(くに)を離れることは、幼い頃から覚悟してたことよ。だから、これはちゃんと受け入れられるわ)
相手の国が超大国で、相手が王太子だということに対しても、この半月間でフランセットなりに覚悟を決めた。
(わたしはきっと、幸せなんだわ)
王族は政略結婚が基本だ。顔も見たことのない相手と結婚することなんて、ザラにある。思惑はあっても愛はないという結婚が、普通なのだ。
(そんな中で、好きになった人と結婚できるなんて)
とても幸せで、それ以上に、運がいいことなのだ。
だから怖じ気づいて逃すのではなく、きちんと背を伸ばして、前を見て、幸せをつかみとろうと決めたのだ。
(だからちゃんと、殿下にお伝えしないと)
今夜はこの砦の貴賓室で一泊するという。メルヴィンはいつも、フランセットとは別の部屋で眠るが、その前にメルヴィンをつかまえて話しをする時間を作ってもらおう。
(でも、想いを伝えて夜を迎えるということは、その……。閨事(ねやごと)に、結びついてしまうのかしら)
フランセットはにわかに緊張し始めた。想いを伝えるだけでも大変なのに、それ以上のことを考えると、頭の中がいっぱいいっぱいになってしまう。
(だって口付けですら、立てなくなってしまうくらいになるのに)
閨事の詳細を、ロジェ王国の侍女らに聞いておけばよかった。フランセットが緊張していると、ふいに馬車が止まった。扉の向こうから侍従の声がして、関所の敷地内の迎賓館に辿り着いたことを告げられる。
カーテンを薄く開けて、フランセットはぎょっとした。
迎賓館前の広場に、百を超えるであろう人々が、馬車の前で跪いている。ここはもうウィールライトの領土で、だから彼らが纏う揃いの黒い軍服は、ウィールライトの兵士のものだ。
たくさんの貴族や民衆が自分にひれ伏すのを見たことは、何度もある。けれどこれだけの数の兵士を見たことは一度もなかった。
「……こんなに、たくさん」
「関所に詰めている者の、ほんの一部だよ」
隣からメルヴィンの腕が伸びて、ザッとカーテンが閉められる。視界から兵士たちの姿が消えて、それから再び、馬車の外から侍従がメルヴィンたちを呼ぶ声がした。フランセットに緊張が走る。
「も、もう行かなくてはいけませんね」
「待って」
コン、と一度、馬車の扉をメルヴィンが叩いた。それで侍従からの呼び声が途絶える。
「僕を見て、フランセット」
メルヴィンの、漆黒の瞳を見上げたとたんに、彼の唇がフランセットのそれに押し当てられた。目を見開くフランセットの頬を、宥めるように撫でてから、メルヴィンはさらに口付けを深くしていく。
片方の手首を取られて、背面に押しつけられた。指と指が絡んで、きつく繋ぎ合わされる。
「殿下、待っ……」
は、と酸素を求めて顔をそらしたが、下から掬い上げるようにして、また口づけられた。下唇の裏側に、やわらかく歯を立てられて、ぞくぞくとした熱が背すじを駆け下りていく。
「……あなたが緊張しているようだったから、ほぐしてあげたくて」
吐息が混ざり合う至近距離で、陶然としたまなざしを送られながら、そう囁かれた。こんなの余計に緊張するのですがという訴えは、また深く混ざり合ったキスに呑み込まれていく。
「っん、ぅん……!」
「かわいい声。まるで拷問だな」
濡れたような双眸で、メルヴィンは切なさの滲む声音で言う。
唇が重なり、舌が差し入れられて、熱い粘膜をまさぐられた。
(外には兵士が、いっぱいいるのに)
王太子が馬車から降りるのを、待っているのに。
フランセットは繋がれた方とは反対の手で、メルヴィンの服を縋るようにつかんでいた。それを包むように、彼の手が重なる。
その優しい温かさに、胸がきゅっと痛んだ。
「……けれどこれくらいでちょうどいいのかもしれない。少なくとも、今は」
唇から温もりが離れていく。思わず目線で追うと、ちょん、とフランセットの唇に、メルヴィンの人差し指が押し当てられた。
綺麗な顔をにこりとやわらげて、メルヴィンは言う。
「僕はあなたが初恋だから、慣れなくて。時々どうしていいのか分からなくなるんだ」
「……」
慣れなくて?
「王太子殿下。いったいどの口が」
「そろそろ出ようか。皆が僕の可愛い花嫁をお待ちかねだよ」
馬車の扉が開かれる。
メルヴィンのおかげで毒気を抜かれたフランセットは、下手に緊張せず、大勢の兵士の前へ出ることに成功した。
*
夕食をとり、湯浴みをすませ、例のスケスケのネグリジェの上にガウンを羽織って肌を隠しつつ、フランセットは緊張しながらドアをノックした。
迎賓館の貴賓室、つまりはメルヴィンが今夜宿泊する部屋である。
(ちゃんと言うって、決めたんだから)
それでもメルヴィンの声がして、フランセットが名乗って、扉が開かれると、心臓が飛び出るくらいドキドキし始めた。
「どうしたの、フランセット?」
優しく笑うメルヴィンは、湯上がりのようだ。ほんのりと肌が上気して、漆黒の髪が少しだけ濡れている。素肌にガウンを羽織っているようで、合わせ目から垣間見える肌色に、フランセットはまた動揺した。
「あ、あの、お話があるのです。少しお時間、いいですか?」
「……ここで?」
「はい、殿下のお部屋で」
メルヴィンは沈黙した。すぐに了解が得られると思っていたフランセットは、内心焦り始める。
「あの、もしかして、今はお忙しいですか?」
「ああいや、そういうわけじゃないんだけど」
メルヴィンは、それでも真剣な表情だ。
「どうしようかな……」
ここは出直すのが正解だろう。けれど今いかなかったら、心の準備をまたイチからし直さなければならない。
「お忙しいところ申し訳ありません。でも、ほんの少しでいいんです。用事がすめば、すぐに部屋に戻りますから」
そうすればメルヴィンの邪魔にならないだろう。閨事のことが頭をかすめたが、フランセットにとって、そんなことよりメルヴィンの時間を拘束してしまうことの方が申し訳なかった。彼は久しぶりに領地に戻ったのだ。いろいろとやらなければならないことがあるのかもしれない。
「すぐに戻るの?」
メルヴィンは軽く目を見開いた。それからふと、表情をやわらげる。
「なんだ、僕の勘違いか」
「え?」
「いや、なんでもないよ。入っておいで、あなたの話を聞こう」
メルヴィンは扉を開いて、フランセットを中へ促した。