30 花嫁は、大失敗をする。

「なんなのよ、もう!」

 あまりの腹立たしさに、自室の長椅子を蹴り上げたくなった。しかしすんでのところで我慢した。

「権力欲に凝り固まった中高年ほど、厄介なものはないわ!」

 しかし自分の父親も同じ種類の人間だと思うと、二重にげんなりする。
 フランセットの苛立ちをさらに煽ったのは、友人の言葉だった。翌日の昼食会である。

「気がかりな噂を聞いたのですが、大丈夫ですかフランセット様」

 気遣わしげに眉を寄せながら、友人は言った。

「フランセット様の弟御が、ロジェ国王陛下の命令を受けて、ウィールライト王国へ発ったとお聞きしたのですが」

「リオネルが?!」

 フランセットは目を見開いた。弟のリオネルは生意気なほど利発だが、まだ八歳だ。金策の名代として立つには幼すぎる。

(まさかお父様、子どもを使って情に訴える作戦を取ったのかしら)

 顔から血の気が引いた。この噂が本当だとしたら、今すぐにでも関所へ向かって、リオネルを止めなければならない。いっそのことそのままロジェの王宮へ乗り込んで、父親を叱りつけなければ。

(メルヴィン殿下には、ご相談できないわ)

 どうせ前回のように、あっさり袖にされておしまいに決まっている。

 フランセットはいてもたってもいられなくなり、友人の手をぎゅっとつかんだ。

「ごめんなさいリリアーナ様。わたし、突然春蛍を見たくなってしまって」

「えっ、蛍を?」

「はい。心労が重なったので。愛らしいものを見て癒やされたいのです」

「まあ、それはとてもよろしいと思いますわ」

「ありがとう。でもメルヴィン殿下にご心配を掛けさせたくないので、ひとりで出掛けたいの。だから、今夜にでも、あなたの家の馬車を貸してくださらないかしら? 王太子宮の馬車を使うと、殿下にバレてしまうから」

「もちろんですわ。女性には殿方と離れてゆっくりしたい時もありますもの。ちょうど先日、足の速い馬が入りましたので、その馬車をご用意致しますね」

 フランセットは胸を撫で下ろした。関所まで一週間ほどの道のりだが、途中の街で馬車を乗り継いでいけば辿り着けるはずだ。

 メルヴィンには手紙を書いておけば大丈夫だろう。いや、大丈夫ではないかもしれない。彼の怒りに触れるかもしれないが、今はそれよりも父親を止めなければならない。

 友人の迷惑にならないよう、最大限の手配をすることを心に決めて、フランセットはこの夜、関所行きを決行することにした。

 メルヴィンはお酒に弱い。申し訳ないが、その特性を利用させてもらった。
 寝る前のホットミルクに、ブランデーを少しだけ落とす。今夜メルヴィンはよほど疲れていたようで、閨事をしなかった。フランセットを抱き込むようにしたあとそのまま眠ってしまった。

「ごめんなさい、殿下」

 ぐっすり眠り込むメルヴィンにそう告げて、フランセットはベッドから抜け出した。一人でも着られる簡易なドレスに袖を通し、ショールを引っかけた。テーブルにメルヴィン宛ての手紙を置いてから、寝室を出る。

 中庭を抜けて裏門へ出ると、そこには友人の馬車が待っていた。門衛に「春蛍を見に行きたいの。殿下にはお伝えしてあるわ」と告げ、小ぶりの箱馬車に乗り込む。
 御者は友人宅の使用人だ。ゆるゆると馬車が走り出した。

(蛍の名所は、そこそこの大きさの町だったわね。そこで馬車を乗り換えよう。この御者には、適当に言いつくろって帰ってもらえばいいわ)

 路銀は多めに持ってきている。関所まで余裕で馬車を雇えるはずだ。

(関所に着いたらリオネルを連れて王宮に戻って、父様と直談判よ)

 明朝メルヴィンが目覚めて、追いかけてくるかもしれない。しかしこの馬は足が速いという。確かに、フランセットがいつも乗っている馬車よりもスピードがあった。これならば簡単に追いつかれないだろう。

 フランセットはカーテンを少し開けて、外を見た。不規則に揺れる景色は、夜に沈んでいる。未舗装の林道に入ったようだ。

「メルヴィン様にはものすごく怒られるだろうけれど……」

 お叱りは覚悟の上だ。そんなことより今は、弟が心配だし父親を止めたかった。

(普段ニコニコしているタイプほど、怒った時は地獄のように怖ろしいような気がしないでもないけれど)

 怒りのメルヴィンを想像したら、背すじが寒くなった。その時である。突然馬が高くいななき、箱馬車が激しく揺れた。

 フランセットは悲鳴を上げて、窓枠に縋りついた。壁の向こう側から野太い怒鳴り声が聞こえてくる。それも複数だ。「動くな」だとか、「中を確認しろ!」などという言葉が聞こえてくる。

(夜盗……?!)

 フランセットは顔色を失った。ウィールライト王国は治安がしっかりしているイメージだったので、こういう事態は予想もしていなかったのだ。

 震える指を握り込んで、フランセットは冷静になれと己に言い聞かせる。

(路銀はたくさんあるから、それを渡して、御者も含めて命だけは助けてもらうように交渉して)

 この馬車に王太子妃が乗っていると、夜盗は知らないはずだ。ただの金目当てなら、助かる可能性はある。

 フランセットはカーテンを開いて外をうかがった。闇の張る林道、黒ずくめの男たちの中には手にたいまつを持っている者もいる。そこから浮かび上がる人数は、およそ十。それぞれ手に、無骨な剣を携えている。

 その中の一人が、御者を台から引きずり下ろしたようだった。首根っこをつかまれ地面を引き回され、御者が悲鳴を上げている。
 夜盗が御者の顔を確認するように、たいまつで照らした。

「この馬車だ、間違いない。中を調べろ。王太子妃がいるはずだ」

 夜盗らの目が一斉にこちらを向き、フランセットは喉を震わせた。

(どうして知っているの?)

 友人が夜盗とつながっていたのだろうか。いや、そんなことはありえない。しかしフランセットを狙っているとはっきりした以上、彼らがただの夜盗ではないことは明らかだった。

 夜盗ではなく、敵対する人間の勢力の――

(わたしを邪魔だと感じている人間の)

 脳裏に叔父であるウォルターの姿がよぎった。その直後だ。

 立て続けに夜盗らからうめき声が上がった。暗闇の中、もんどり打つようにして転げる彼らの姿が見える。フランセットには何が起こったのか分からない。

「注意しろ、矢だ!」

 リーダーらしき男が、怒鳴り声を上げる。

「急ぎ妃を捕らえろ、その後撤退する!」

 フランセットは息を呑んで、窓から後ずさった。乱暴に扉が開かれ、目から下までを黒い布で覆った男が顔を出す。

「こっちへ来い」

 低い声で命じて、男がその太い腕をフランセットへ伸ばした。悲鳴も上げられず震えるフランセットは、しかしその直後、目を見開いた。

 突然男が横っ飛びに吹き飛んだ。彼を蹴りつけた後、メルヴィンが扉の枠をつかんでフランセットを覗き込む。

「怪我は?」

 短く問うその声は、乱れた息に弾んでいた。言葉を忘れたフランセットが、ぎこちなく首を横に振る。するとメルヴィンは安堵したように息をついたのち、厳しい表情のまま告げた。

「ここで待ってて。扉をけして開けないように」

 叩きつけるように、扉が閉められた。剣の鞘走りの音が、フランセットの耳を貫いた。

「エスタ―、御者を保護しろ!」

 短い命令と、それに応えるエスターの声。夜盗の怒号と、時折火花が闇に散る。あれはメルヴィンの魔法だろうか。薄いカーテン越しでしか、外の様子を捉えられない。フランセットはただ、小さな箱の中で縮こまることしかできなかった。

(どうしよう、わたし――)

 自分自身を抱きしめる。震えが止まらないのは、恐怖のためだけではない。

(わたし、とんでもないことを)

 自分の軽率な行動に、めまいがした。

「ひ、引け、撤退だ!」

 夜盗から、切羽詰まった声が上がる。逃走していく足音を縫って、メルヴィンの声が通った。

「逃がすなアレン!」

「はいはいっ!」

 馬のいななきが、高く響く。
 やがて周囲から雑音が消え、木々のざわめきがフランセットの耳を掠めたころ、静かに扉が開かれた。

「終わったよ」

 メルヴィンは手にたいまつを持っていて、その光が淡い微笑に陰影を落としている。
 いつもどおりの、穏やかな笑みだった。

「立てる? フランセット」

「は、い……」

 膝に力を込めて立ち上がろうとした。けれどフラついてしまって、メルヴィンに抱き留められる。
 メルヴィンは背後のエスターにたいまつを渡して、フランセットを横抱きにした。馬車から降りつつ、静かな声で言う。

「下を見ない方がいい。ひどい現場にしてしまったからね」

「……はい」

「王太子宮へ戻ろうか。後処理を頼んだよ、エスター」

「了解、兄上」

 エスターの軽い返事が聞こえてきた。フランセットはメルヴィンの腕の中で、震える息を長く吐き出した。メルヴィンの服を握っていたのは、無意識だった。彼はシャツ一枚という軽装だった。

(助けに、きてくださったんだわ)

 他に人の気配がしないということは、メルヴィンは弟二人だけを連れてここまで駆けてきてくれたのだろう。

(王太子妃が、一人で夜中に出掛けたということを、露見させないように)

 フランセットの立場を守るために、あえて信頼できる弟だけを供にしたのだろう。

 メルヴィンの馬に乗せられた。彼の腕が、フランセットの背中を抱き込むようにたずなをつかむ。
 胸がひどく痛んだ。けれど、泣いてはいけないと思った。
「……申し訳ありませんでした」

 謝罪の声は、掠れて消えた。

「落ちないように、ちゃんとつかまっていて」

 優しい声が耳に触れて、それから馬が夜の林道を走り出した。

 このまま王太子宮へ戻り、自室か書斎へ連れて行かれて、彼に叱られるのだとばかり思っていた。けれどフランセットが連れて行かれたのは、別の場所だった。

 寝室から見えていた、あの寂しげな塔。母屋から中庭を挟んだところにひっそりと立っている、物見のように背の高い建物の、最上階だった。