「いえ、王太子妃殿下。こいつが同じ空間にいる場で食事することは、俺にとって最大の苦行です」
「あら、でもお二人は幼なじみで、小さいころ何度も一緒にお食事をした仲だとか」
「そのとおりです、フランセット殿下。どちらがより多く、より早く食べ終えるかを、睨み合いながら競い合った仲です」
「寄宿学校時代では、同じ寮、同じ部屋で、楽しいことや苦労したことを分かち合った仲だとも聞いていますわ」
「はい、王太子妃殿下。ベッドの中にムカデを仕込まれたことが、一番の思い出です」
「俺はビーフシチューにタバスコを一瓶混ぜられて舌がおかしくなり、その夜眠れないほど苦しみました」
こいつら、とフランセットは頭痛を覚えつつも、夕食会を台なしにしては、メルヴィンの信用にも関わってくるので、なんとか笑顔を貼りつけた。周囲は、こちらを心配そうに窺っているようだ。
「ふふ、男の人が羨ましいわ。女性同士でそのようなことをやりあってしまったら、どちらも仲間を作ってもっと陰険な陰口の応酬になっているはずです。こうして正面切って言い合えるのは、きっとお二人が、とてもサッパリした性格の、素敵な男性だからね」
フランセットが穏やかに笑ってそう褒め称えると、二人は彼女を見て、うっすら頬を赤らめた。
「い、いえ。妃殿下にお褒め頂くようなことでは」
「そ、そのとおりです。俺たちも小さなことでケンカをしてしまって、本当に申し訳ございません」
「せっかく殿下が開いてくださった夕食会なのに……」
「反省します」
そのとおりだ百万回反省しろ、と内心で思いつつ、フランセットはにこりと笑った。
「気になさらないで。ケンカするほど仲がいいといいますもの。またこのような会を開いた際には、ぜひお二人でお越しになってくださいね。一緒にたくさんお話しましょう」
「はっ、はい!」
「仰せのままに!」
フランセットは安堵の息をついた。周囲の貴族たちからも、一様にほっとしたような空気が流れる。
それにしても、うまくケンカをおさめることができたものだ。もう少し手間取るかと思っていた。
フランセットは今日、紫陽花のような薄紫のドレスを身につけていた。こういういかにも女性らしい、やわらかな布を纏っていると、相手の怒気も少しは和らぐのかもしれない。
(女性の戦闘服みたいなものかしら)
乙女級ドレスを見直しつつ、フランセットが席に戻ろうとした時である。気がゆるんだせいなのか、着慣れないドレスが悪かったのか、普段では絶対にありえない失態を犯してしまった。
足をもつれさせて、転びそうになってしまったのである。
「きゃっ」
「殿下!」
「危ない!」
双方から手が差し出され、フランセットはとっさに、目の前にあった方につかまった。その彼は、ほっとしたような表情で、もう片方の手をフランセットの腰に添えて体勢を立て直してくれる。
「お怪我はありませんか?」
「ええ、ありがとう」
フランセットが微笑むと、彼は耳を赤くしたままこちらを見つめてきた。そのまま五秒ほど沈黙があり、フランセットが首を傾げるころになって、もう一方が怒りの声を、彼に突きつけた。
「おい、いつまで殿下の腕と腰に触れているつもりだ。不敬だろう」
「俺はお助けしただけで、不敬なことなどしていない。おまえこそ、殿下がよろけたのを助けられなかったじゃないかノロマ野郎」
「は、すけべ野郎に言われたくないね」
「なんだと?」
フランセットの頭がついていかない内に、二人は互いの襟首をつかみ合い始めた。フランセットはびっくりして、二人の間に割って入ろうとする。
「待ってください、どうして突然ケンカになるの?」
「殿下、こいつはどうしようもないヤツです。殿下に触ったままデレデレデレデレ……」
「いえ殿下、こいつの方がどうにもなりません。殿下をお助けできなかったどころか、見当違いな悋気を起こして不敬極まりない」
「おまえの考えこそが低俗だ、謝れこの低能」
「おまえこそ意味の分からないことで侮辱してきやがって、謝れ腑抜け野郎」
ケンカの声が大きく熱を帯びてきた。周囲が再びザワつき始める。男性の中では、ケンカを止めるためか、腰を上げ始める者もちらほら現れている。
(まずいわ)
フランセットは、拳を握りしめ始めた二人を見て、顔色を変えた。暴力沙汰になっては困る。慌てて二人の間に割って入ろうとした。
相手は熱くなった男性二人だ。もしかしたら巻き添えを食うかもしれない。けれど、そんなこと構っていられなかった。フランセットの会で起きた失態は、そのままメルヴィンの評価にもつながるのである。
「二人とも、落ちついて――」
拳を振り上げた二人を、必死で止めようとしたその時である。
中庭に続く一面の窓から、あざやかな光が弾けた。どおん、と大きな音がして、夜空にパッと大輪の花が咲く。
招待客は――殴り合いを始めようとしていた二人も含めて――、みな、ぽかんと口を開けて外を見た。夜空に花開いたのは、色とりどりの光。花火である。
次々に打ちあがり、紺碧の夜空を絢爛に彩る光に、やがて招待客たちは拍手と歓声を上げ始めた。
すると、いつのまに戻ってきたのか、メルヴィンが微笑みながら、裏庭の窓を開ける。
「僕からのプレゼントだ。どうぞ庭へ。楽しんでもらえると、嬉しいな」
皆がメルヴィンに礼を言い、足早に裏庭へ出て、美しい花火を興奮した面持ちで鑑賞する。
正餐室に残されたのは、フランセットと、振り上げた拳を宙に浮かせたままの二人、そしてメルヴィンだけになった。
メルヴィンは無言でこちらに視線を移しながら近づいてくる。二人は慌てた様子で拳をおろした。しかしフランセットは、メルヴィンの表情に不快感がよぎったのを見て、背すじが寒くなった。
「どうしたの、二人とも。僕の妻を取り囲んで、いったいどんな話を?」
「え、いや、その……」
「特別な話は、なにも」
見るからにうろたえる二人を、メルヴィンは見下ろしている。メルヴィンは彼らより二歳下だが、背丈は越えているし大人びた落ち着きがあるように見えた。
顔色を変えて、おどおどしている二人を、メルヴィンはしばらく無言で見つめていた。やがて短くため息をついて、笑みを浮かべる。
「フランセットが開いた会だ。楽しんで」
彼らの肩にポンと手を置いて、庭へ促す。二人は勢いよく頭を下げたのち、我先にと庭へ駆け出そうとする。その時メルヴィンが「ああそうだ」と二人を引き留めた。
「今度妻の前でいさかいを起こそうとしたら、きみたちの両手足を、鎖で縛り合わせて仲直りさせてあげるから、そのつもりでいて」
「は、はい……」
「もう二度としません……」
二人は顔面を蒼白にしながら返事をして、よろよろと庭へ出ていく。
フランセットは、彼らの姿を茫然と見送っていたが、ふと視線を感じてそちらを見た。メルヴィンが、困ったような表情で、フランセットを見下ろしている。
「あのね、フランセット。僕はこの場であんまりあなたに言いたくはないんだけど」
「分かる。分かってます。ごめんなさい」
フランセットはてのひらをメルヴィンに向けて、先手を打った。
「けれどこの場合、わたしが事態をおさめにいくのが正解だと思いませんか。主催者なのだし」
「正解かもしれないけれど、正しいとは言えない。だって僕を心配させたから」
フランセットの手首をつかんで、メルヴィンはてのひらに唇を押し当ててきた。軽く吸われて、フランセットはびくんと肩を震わせる。
「ちょ、殿下……っ、皆が、見て」
「みんなは花火を見ているよ」
彼のもう片方の腕が、フランセットの腰を攫う。優しく抱き寄せられたと思ったら、ぎゅときつく抱き込められて、フランセットは目を見開いた。
「――心配した」
低い声が耳もとに落ちる。こめられた彼の感情を感じとって、フランセットの胸に、苦い反省が広がった。
「ごめんなさい」
「あんまり無茶なことしないで」
「はい」
フランセットは強い決意とともに、彼の腕の中で頷く。メルヴィンはしばらくの沈黙ののち、そっと体を離した。いぶかしげな表情で、フランセットを見下ろす。
「本当に分かってるのかな、僕の奥さんは」
「それよりメルヴィン殿下。あの花火は魔法ですよね」
「そうだけど」
「人前で使いたくないと仰っていた魔法を使わせてしまって、申し訳ありません」
フランセットは神妙に眉を寄せて謝罪する。メルヴィンは目を丸くしたあと、甘く表情を崩した。
「そんなこと気にしないで、フランセット」
「わたしが未熟なせいで、殿下の意志を曲げさせてしまったのが申し訳なくて。あの二人、殿下が席を立った直後にケンカを始めたんです。殿下の存在がストッパーだったのだわ。わたしの存在だけでは、まだまだ場を静めることができません。自分の未熟を痛感したので、これからもっと励もうと思います」
「なんでいつもそんなに可愛いことばかり言うの?」
「はっ?」
「いちいちツボを突かれまくるからつらいなぁ」
メルヴィンはくすくす笑いながら、フランセットの片頬をてのひらで撫でた。よく分からないことを言われて、フランセットは目を白黒させているばかりである。
「フランセット」
やわらかく名を呼ばれる。花火が上がった。室内が色鮮やかに染め上がり、またすぐ静かになり、そして再び光が広がる。
人々の歓声が、庭から聞こえてくる。この綺麗な現象を、目の前の彼が作りだしていると思うと、フランセットは不思議な気持ちになる。
くちびるが重ねられた。抱きすくめられ、指で髪を梳かれて、フランセットは心地よさに目を閉じた。