20 人妻とふたりきりにさせてくれと、その夫に頼むとか

「見て、フランセット。バターたっぷりでおいしそうだよ」

 上機嫌な様子でメルヴィンが焼きポテトを差し出してくれた。ほくほくと湯気のたつじゃがいもの上に、黄色いバターがとろりと光っている。
 街の食べ物は大好きだ。フランセットは、紙に包まれた焼きポテトを嬉々として受けとった。

「ありがとう、メルヴィン」

「食べかたはわかる?」

「もちろんよ。かぶりつくのよね」

 フランセットはぱくっとかじりついた。とっても熱いけれど、じゃがいもが口のなかでほどけるようでものすごくおいしい。

「さすがフランセット。生国のロジェでも、こんなふうに出歩いていたんだよね?」

 隣に腰かけたメルヴィンが、おなじように焼きポテトを食べながら聞いてくる。フランセットはうなずいた。

「ええ。仲のいい侍女や友だち、いとこのアレットといっしょにね」

「すてきなことだね。楽しそうだ」

 メルヴィンがおだやかに目を細めている。フランセットもほほ笑みを返した。

「いまももちろん楽しいわ。こうやって殿下と……メルヴィンと城下を楽しめるなんて、想像もしていなかったから」

 広場では、子どもたちが駆けまわったり、若い男女が寄りそいながら散歩を楽しんでいたり、老人たちが談笑していたりする。
 宮中にこもっていたり、貴族たちのパーティーに足繁く通っていたりするだけの生活では、目にできなかった光景だ。

「理想的で……とってもすてきな結婚生活を送っているわ。ありがとう、メルヴィン」

 メルヴィンと視線をあわせながらそう告げると、彼はわずかに目を見開いたのち、ふいに肩を抱きよせてくちびるに口づけてきた。

「……!」

「人前でこういうことしちゃいけなかったね」

 軽くふれあうだけの口づけをほどきながら、至近距離でメルヴィンがささやく。めがねの奥の黒瞳が濡れているように見えて、フランセットの鼓動がはね上がった。

「ごめんね、フランセット。でもあなたが悪いんだよ」

「せ、責任転嫁しないで」

 顔を真っ赤にさせながら、フランセットはメルヴィンを押しのけた。メルヴィンは、くすくす笑いながら手を離す。

「すこしくらいはいいじゃない。僕らはいま、ごくふつうの恋人同士というだけなんだから、公園でキスくらいはするよ」

「あなたは、ごくふつうの人にはぜんっぜん見えないから!」

 実際に目立ちまくっている。子どもたちは「あのきれいなおにいちゃんが、おねえちゃんにちゅーしたー」と言い、若い女性は「お忍びの高貴な紳士さまが、キスしているわ! いいもの見ちゃった!」と興奮し、老人たちは「おやおや、べっぴんさんのカップルだこと。若いっていいねぇ」とほのぼのしている。

「えっ、見えない? おかしいなぁ」

「いいのです、メルヴィンはそのままでいいの。でも、節度はちゃんと守ってちょうだい」

「うん、わかったよフランセット。ごめんね。それで、街デートに関して聞きたいことがひとつあるんだけどいいかな?」

「はい、なんですか?」

「ロジェにいたころは、男友だちと出かけたりはしなかった?」

 フランセットはまばたきをした。それからせきばらいをする。

「ええと。男友だちというのはつまり、クリストフのことを言っているのかしら」

「いやだなフランセット、そんなに警戒しないで。ただの興味本位で聞いてみただけだよ」

「……。それなら、いいけれど。いっしょに出かけたことはあるわ。だって、クリストフは王家の近衛だもの」

「ふうん、そうなんだ」

 三秒ほど沈黙が流れる。

「あのね、フランセット。僕は」

「でもね、メルヴィン。べつにそれは」

 互いの声がかぶってしまったので、また三秒ほどの沈黙が落ちて、それからメルヴィンが肩をすくめて笑った。

「お先にどうぞ」

「いいえ、メルヴィンからどうぞ」

 フランセットが苦笑しつつうながすと、メルヴィンは瞳をなごませた。金色の髪がそよ風にさらりと揺れる。

「僕は、クリストフのことをきらいなわけじゃないよ」

「ほんとう?」

「うん、ほんとだよ。ただし、あなたの前に現れないかぎりはね」

「……」

「それで、フランセットの言いたかったことって?」

 クリストフと出かけたのは、護衛として付きそってもらっただけであって、いまのようなデートという雰囲気では決してなかった。
 そういうことを説明したかったのだが、なんだかフランセットは、脱力してしまった。

「いえ、なんでもないわ。気にしないで」

「気になるなぁ」

 メルヴィンは困ったような顔になる。

「僕は確かにやきもちやきだし、クリストフとあなたがふたりでいるところを見ておもしろくない気分にはなるよ。けれど、ちゃんとわかっていることもあるんだ。だって、彼はあなたの――」

 ふいにメルヴィンは言葉を切った。彼の視線が噴水のほうにむいたので、フランセットもつられてそちらを見る。
 すると、腰に剣を差したひとりの青年が、驚いたように足をとめた。がっしりとした長身と、繊細そうな若草色の瞳。見まちがいようもなく、クリストフである。

「フランセットさま! それに、おとなりは……王太子殿下、でいらっしゃいますか? 髪のお色がちがうようですが……」

「うんそう、僕だよ。よくわかったねクリストフ。きみはお昼休みかい?」

 メルヴィンが、ひとなつっこい笑顔で尋ねると、クリストフは、周囲を気にしつつ近づいてきた。

「はい。昼食でもとりにいこうかと思っていたところです。ところで、ここでおふたりに礼をとっては……ならないのですよね、きっと。本日もお忍びでございますか?」

 フランセットは「ええ、そうなの」とうなずいたが、いまこのタイミングで現れたクリストフの間の悪さを思わずにはいられない。

「クリストフはこれから昼食なのか。そういえば、食事の約束をきみとしていたんだったね。どうかな、これから三人でお昼ごはんを食べにいかない?」

 フランセットはぎょっとした。あわてて言いそえる。

「これからお食事だなんて。わたしはさっきの焼きポテトでお腹がいっぱいになってしまったわ」

「そうなの? フランセットは小食だね」

「なので、昼食はべつの機会にしましょう。クリストフだって、今日はお仕事がある日なのだもの」

「それもそうだね。じゃあクリストフ、きみとの約束はまたの機会でいいかな?」

 クリストフはうなずいた。

「ありがとうございます。心より楽しみにしております」

 とは言いつつも、クリストフの表情はひどく真剣みをおびている。一度目を伏せたのち、思いきった様子でメルヴィンを見た。

「王太子殿下。たいへん恐れながら、お聞き入れいただきたいことがございます」

 メルヴィンは、困ったように苦笑した。

「話は聞くけれど、その呼びかたはやめてもらえないかなぁ。苦学生に変装しているのにバレてしまうよ」

「苦学生……? 王族ゆかりの高貴な紳士が、街に出て庶民ごっこを楽しんでいるという設定ではなく?」

 とまどうクリストフに、フランセットは言った。

「そのあたりはそっとしておいてあげて。ところでクリストフ。聞いてほしいこととはなにかしら?」

 クリストフは、一拍黙ったあとで口をひらいた。

「フランセット妃殿下と、ふたりきりで話をさせていただく時間を私にくださいませんか」

「へえ、フランセットとふたりきりで話を」

 メルヴィンが、薄い笑みをまじえながら言う。一方でフランセットは、全身が固まってしまって声も出ない。

(クリストフは昔から空気の読めないところがあったけれど、いまでもぜんぜん改善されていないわ……!)

 先日の馬車内での雰囲気はもう味わいたくない。ここはなんとか穏便にすませなければ。
 フランセットは頭を回転させつつ、メルヴィンのほうに(怖かったが)視線を移した。「今日はもう疲れてしまったので、いますぐ帰りたい」という旨を伝えようと思ったのだ。
 しかし、フランセットがしゃべるより先に、メルヴィンが返事をした。

「僕はかまわないよ。フランセットはどうする?」

 信じられないことに、こっちに判断をゆだねてきた。
 この場からフランセットはすぐさま逃げ出したくなった。

「どうかお願いします、フランセットさま」

 クリストフは、思いつめたような表情でフランセットに訴えてくる。メルヴィンは、ごくおだやかに笑みを浮かべているが、レンズごしに見つめてくる瞳にはあやしげな光があるような……気がする。

 妻という立場ならばクリストフの言うことを受け入れてはならないだろう。けれど、いまのようなせっぱつまった表情の彼を見たことはほとんどない。

 だからこそ、フランセットは迷った。クリストフは数少ない同郷の友人だ。名門貴族だったのに、落ちぶれていまは外国で剣士として庶民にまじり剣をふるっている。彼の力になりたいという思いは、すくなからずあるのだ。

(クリストフの話したいことというのが、なんなのか見当もつかないけれど。あの深刻そうな顔を見るに、きっととても重要なことなのだわ)

 メルヴィンがやきもちやきだということは知っている。でもフランセットは、彼が賢い人だということも知っている。
 ただ感情に任せて動く人ではない。だからフランセットが、クリストフと話をする時間を設けようとすることは、夫を信じているし、彼もこちらを信じているという証でもあるのだ。

(だからこそ、わたしに選択権をゆずってくださったのだし)

 こちらを試したり、いじわるをしたりするような意図は、メルヴィンにはなかったのだと、……思いたい。
 フランセットは、一度息をついたあとクリストフを見つめた。

「あなたの話を聞くわ、クリストフ」