11 国王の愛妾フィーリア

 フィーリアの家は『王家の丘』のふもとにある。

 広葉樹が林立し、やわらかな木漏れ日が差す中に、二階建ての屋敷があった。白の外壁に、赤茶色の屋根。背の高い煙突が備えられており、横に広がるような形の屋敷は王太子宮の十分の一くらいの大きさしかない。前庭もこじんまりとしているが、色とりどりの花がバランスよく植えられていて、心安らぐ空間が作られていた。小さな池が配されているのも見える。

 鉄門の前に馬車を止めると、門衛が門を開いてから恭順の礼をとる。事前に従僕を走らせて訪問する旨を伝えておいたので、馬車に乗ったまま屋敷の前までスムーズに案内してもらえた。

 エントラスの短い階段の前で馬車が停まり、フランセットの緊張が高まる。

(いよいよ、陛下のご愛妾フィーリアさまにお目にかかるのだわ……! 三十三歳になられたとお聞きしているから、清楚なご婦人といった感じのお方なのかしら)

 メルヴィンにエスコートされて馬車を下りる。すると、数人の使用人が居並ぶ中心に、フランセットよりも背の低い女性が佇んでいた。

 彼女のとなりには先日会ったばかりのレイスが控えていたので、彼女がフィーリアだということを知る。彼女をひと目見たフランセットは、あいさつも忘れて見入ってしまった。

 くせのない銀色の髪がそよ風にゆれる。ソフトグレイの色をしたシンプルなドレスは、軽い生地を用いているのか、美しく繊細に波打った。
 ピンクがかった薄紫色の瞳。赤みの少ない白い肌。薄いくちびるは品の良さを感じさせる。
 妖精だわ、とフランセットは思った。

「ようこそいらっしゃいました」

 透明感のある声でそう言って、フィーリアは静かに頭を下げた。合わせてレイスも一礼する。

「王太子殿下のご訪問、心より嬉しく思います。妃殿下におかれましては、お初にお目にかかります。わたくしはフィーリアと申します」

 淡いほほ笑みとともに届けられた言葉に、フランセットは我に返った。

「初めまして、フィーリアさま。お会いできて光栄です。フランセットと申します。先日はご子息にお世話になりまして、とても助かりました。ありがとうございます」

「ロロットの件ですね。レイスがお役に立てたのならなによりです。そちらの籠の中にいる可愛い子がそうなのかしら」

 フィーリアは嬉しそうに笑った。その笑顔があまりにも可憐だったので、フランセットはいよいよ言葉を失ってしまう。

(これは……どんな男性でも落ちてしまうわ……!)

 とんでもなく可愛すぎる。顔立ちが整っているのもさることながら、体つきが華奢で、肌の色が透けるほど白いので、こちらの庇護欲をこれでもかとかき立ててくるのだ。

 ここまで容色の衰えない三十三歳は、まさに奇跡である。それとも、若いころはもっと凄まじかったのだろうか。国王の寵愛っぷりも凄まじかったに違いない。だからといって、不貞行為を認めるというわけではないが――。

 呆然とするフランセットのとなりで、メルヴィンが朗らかに言った。

「おはようございます、フィーリアさま。最近暑くなってまいりましたが、ご体調のほうはいかがですか?」

「元気に過ごしています。陛下や王子殿下方が、栄養たっぷりの食材や旬の果実を送ってくださるおかげです」

 王子殿下方、ということは、メルヴィンだけでなくエスターなどもフィーリアに贈り物をしているということだろう。アレンとレイスの母親だから、という理由ももちろんあるのだろうが、つい手を差しのべたくなってしまう魅力が彼女にはあるのだ。

 フランセットには、自分の可愛げを磨こうと必死になり、結果あきらめたという過去がある。あのときフィーリアに会っていたなら、もっと早い段階であきらめることができていたと思う。

 つまりは、次元が違うのだ。傾国の美女とはまさしく彼女のような女性を言うのだろうと思われた。

 フィーリアに案内されて、一階の応接室に通された。淡い水色の壁紙には、金色の額縁に飾られた絵画が掛けられている。いまの時期は使われていない暖炉の上には鏡が掛かっており、部屋の隅にはピアノが置かれていた。フィーリアが弾くのかもしれない。

 テーブルの上には茶会の用意がされていた。すすめられて、メルヴィンとともに長椅子に腰かける。座面と背面の布に花柄の刺繍がなされた長椅子だった。

 執事と思しき男性が、ガラス製のポットから紅茶を注いで、テーブルに置く。よく冷えているようで、グラスは汗をかいていた。

「屋敷の中は比較的涼しいのですが、直射日光の当たる外はとても暑いですね。一日三回はお庭に水を撒かないと、花がすぐに枯れてしまうんです」

 たおやかな微笑を浮かべながらフィーリアは言う。その声と表情に、フランセットはまたしても魅入ってしまった。

(お声を聞いていると、こちらの心が安らぐようでいて、小さく波立たせられるようでもいて。とても不思議な心地がするわ)

 となりでメルヴィンが尋ねる。

「水やりはフィーリアさまがなさるのですか?」

「ええ、そうです。家の中にいたほうが快適ですけれど、どんなに暑くても、外に出るとほっとします。風にふれながら呼吸をするのが気持ちいいのです」

 言いながら、ほんのわずかの憂いをフィーリアは瞳に滲ませた。フランセットはふと思い当たる。

(フィーリアさまは、王太子宮の中庭に建てられたあの塔で寝起きを余儀なくされていたと――)

 塔の部屋には窓があったのだが、国王があとから石をはめこんで壁にした。その理由を思い出し、フィーリアが外を愛する動機をフランセットは理解した。
 グラスを手にとりながらレイスが言う。

「いくら帽子をかぶっていても、暑い中外に長時間いるのはよくないよ。倒れたらどうするんだって、アレン兄さんも言ってるじゃない」

「ちゃんと気をつけているのよ。侍女のカレンがいつもいっしょにいるし、飲み物も持参しているし……。アレンとレイスは心配性なのではないかしら」

 母子(おやこ)の会話はほほ笑ましいばかりだ。フランセットは告げた。

「でしたら、新しい帽子をお贈りしてもよろしいでしょうか? 実はわたしも外に出ることが大好きな性分なのです。帽子屋にお願いして、夏の日差しを完璧に防ぐ形のものを考案してもらったので、そちらをフィーリアさまにぜひお試しいただきたいです」

「まあ、フランセットさまは話に聞くとおりのお方なのですね」

 フィーリアの笑顔がぱっと咲いたので、あまりの可憐さにフランセットは胸を撃ち抜かれる思いがした。

「去年のことだったかしら。フランセットさまが、立てこもりを起こした剣士たちの中に単身で乗りこまれたとお聞きしましたの。なんて勇気のあるお妃さまなのでしょうと、感動したいました」

「あ、その件ですか。その件はですね、いろいろと問題があったのでわたしのほうからはなんとも言いがたいのですが……」

 フランセットの語調がしどろもどろになる。
 あの一件は、王太子妃としては正しい行動だったのだが、一方でメルヴィンをひどく心配させてしまったからだ。

 案の定、となりからはため息が聞こえてきた。

「立派な王太子妃だということに関しては間違いないのですが、彼女の夫としての僕の心境は複雑ですよ」

「ふふ。奥さまが心配で仕方がないのですね」

 フィーリアは優しく笑う。そのまなざしに、メルヴィンに対する彼女の愛情が垣間見えた。

「アレン兄さんによると、メルヴィン兄さんの寵愛は目を覆わんばかりだそうだよ。――ところで、使いの従僕から聞いた話だと、ロロットの調子が悪いということだけど」

 レイスが、メルヴィンの足もとにある籠に目を向けた。フランセットはうなずく。

「そうなの。ロロが朝から熱があるみたいなので、レイスに診てほしいと思って連れてきたのよ。お願いしてもいいかしら」

「もちろんです、姉さま」

 メルヴィンが、ティーセットをすみによけてテーブルに籠を置いた。レイスは扉を開けて、ロロをとり出す。

「ロロという名前をつけられたのですね。すごく可愛い名前だ。よかったね、ロロ」

 ロロに優しく語りかけながら、レイスは触診を開始する。触り方にコツがあるのか、ロロは警戒心をまったく見せない。
 しばらくののち、レイスは顔を上げた。

「風邪というよりも、怪我からくる発熱だと思う。塗り薬と合わせて飲み薬も処方するけれど、経過を見たいから、ロロを僕がしばらく預かってもいいですか?」

「わたしとしても、そうしてもらったほうが安心だわ。ありがとう、レイス」

「ロロットは本来、家族単位の群れで暮らす動物なんです。どの動物よりも、子育てを一生懸命する子たちでもあるんですよ。だからこそ、家族から離れることが強いストレスになるので、なるべく早くお戻ししますね。この子にとって、家族は姉さまですから。ほら、姉さまのほうをさっきからずっと見ているでしょう?」

 レイスの言うとおり、ロロの大きな瞳はフランセットばかりを映している。

「本当ね! ロロがそう思ってくれているならとても嬉しいわ。でも、怪我が治ったら野生に帰さなければならないのよね」

「それが本来の正しい姿だとは思うけど――」

 ロロの耳下を撫でながら、レイスは言う。

「姉さまを家族として強く認識しているのであれば、このまま飼うのもひとつの手だと思いますよ。そういうことは怪我が治ってから考えても遅くはないので、いまはロロを思う存分可愛がってあげていいと思います」

「たくさん可愛がっていいのか、多少は突き放したほうがいいか迷っていたの。だから、そう言ってもらえて気が軽くなったわ」

 フランセットが安堵していると、メルヴィンがぼやいた。

「夫の器がいよいよ試されるときだな」

「メルヴィンさまも、わたしといっしょにロロの家族になりましょう」

「僕も一員に加えてくれるなんて、とっても魅力的な提案だね」

 メルヴィンは、フランセットの頬に軽くキスをした。もちろん片腕で腰を抱きよせながらである。

 人前で、という抗議が通用しないことは、一年間の結婚生活で身に染みている。フランセットは、動揺と恥ずかしさをごまかすためにアイスティーを喉に流しこんだ。

「まあ、王国一のおしどり夫婦というのは本当ですのね」

「アレン兄さんの言うとおりだったね、母さん」

 フィーリアとレイスが、顔を見合わせてうなずき合っている。レイスのひざの上で、フランセットを見つめながらロロが「チー」と鳴いた。