(ど……)
馬車が揺れる。この箱馬車が、とにかくデカい。ロジェ王室所有のものの、二倍はあるだろう。
(どうしよう……)
そのデカい箱馬車の、やたらふわふわした長椅子の一番スミに縮こまりながら、フランセットはいまだ大混乱のさなかにいた。
父親と母親、そして弟は、一ミリも役に立たなかった。
「いきなり輿入れとか! 無理です! 無理だから!」と訴えるフランセットを、朗らかに送り出したのは他でもない彼らである。
野心だけ立派な弱小国のロジェ王は、大満足で諸手を上げて万歳三唱。王妃は「嫁き遅れが玉の輿に乗るなんてラッキーね」とマイペースに微笑み、弟王子は「僕が遊びに行ったときは美味しい名物並べておいてね」と実に自分勝手なコメントを添えた。
そして最も自分勝手なのは、すぐ隣に座っているメルヴィン=ウィールライトその人であると、フランセットは確信している。
(もう誰も信じられない……)
カーテンの引かれた箱内は、それでも日差しが差し込んで明るい。
壁に肩を預けるようにぐったりしているフランセットは、さっきからずっと視線を感じている。
すぐ隣からだ。
(いつまで見ているつもりなの)
自分なんかを見つめて、なにか楽しいことでもあるのだろうか。
フランセットは、ドレスの布地を押し上げる胸もとで、ゆるく弧を描く金色の髪を見下ろした。
髪は、よく褒められるパーツだ。つやつやしたプラチナブロンドは楚々とした印象を与え、その一方で、弧を描く髪質はやわらかさを感じさせるとよく言われた。
フランセットはついに耐えかねて、思い切ってすぐ隣を振り向いた。
「そんなに見つめられると、体がハチの巣だらけになってしまうのですが」
するとメルヴィンは、少し驚いたように目を丸くした後、嬉しそうに笑った。
「ごめん。だってあなたが可愛いから」
「はあ?」
「ああそうだ。フランセットは、飴が好き?」
「はあ」
「あげる」
メルヴィンは懐から小さな袋を取り出して、とろりとした飴玉をつまんだ。
ぽかんと開けていた口に、それが押し込まれる。びっくりして口を閉じたから、思わずメルヴィンの指ごと食べてしまった。
「美味しい?」
くすくす笑いながら、メルヴィンは指を引き抜く。そこについた飴の味がするはずのフランセットの唾液を、ぺろりと舐め取った。
天上の音楽のように美しい青年の、隠微さを感じるような仕草に、フランセットの体温がいっきに上がる。
味なんて、
「わ、分かりません!」
「僕の領地は、ロジェ王国との国境にほど近いんだよ」
フランセットを引っかき回しておいて、メルヴィンは唐突に話題を変える。
「だから馬車で駆けて、半月くらいかな。それで僕の領地の屋敷に着ける。フランセットはしばらくそこで過ごして」
「……領地、ですか? 都ではなく?」
王太子と結婚したら、普通は首都の王宮に行き、王や王妃と謁見するのではないだろうか。その他にも結婚式やお披露目会など、さまざまな行事が目白押しのはずだ。
フランセットはそういう行事が実に面倒だったので、今から憂鬱でもあった。
(というかそれ以前に、この結婚自体にも疑問があるんだけど!)
「生活するだけなら、僕の領地で充分事足りるからね。王宮の方は、そうだな、もう少し周囲が落ち着いてから連れて行くよ。そんなことより、フランセット」
自分から領地の話題を振っておいて、見事にフランセットを置き去りにしたまま、メルヴィンはまた話題を変えた。
「その飴、僕も食べたいな」
「……。ご自身の袋の中に、まだ残っているのではないですか」
「フランセット、こっちへおいで。僕の膝の上に」
「は?!」
「美味しそう」
こっちへおいでと言われて、逆に身を引いたフランセットを追うように、メルヴィンが距離を詰めてきた。
怖ろしいほど綺麗な顔が、目の前にある。フランセットは「ひっ」と喉を引き攣らせた。
「ち、ちか、近いです、王太子殿下」
「メルヴィンでいいよ」
「そんな畏れ多い」
「フランセット」
背けたあごを、指先で軽く掬われた。そのままごく自然に、彼の唇が重なる。
「?!」
やわらかくて熱い皮膚が、フランセットの唇を覆った。
目を見開いたフランセットのごく間近で、彼の目が笑みの形に細められる。それからゆっくりと、長い睫毛に縁取られた瞳が伏せられた。
ぬるりと唇の上を、彼の舌が這う。びくりとフランセットは肩を震わせた。
熱く濡れた感触に、背すじがぞくぞくする。
「っ、ん」
「フランセット……」
一度離れて、掠れた声で囁かれ、また重なる。
酸素を求めて開いたフランセットの口の中に、彼の舌が差し入れられた。
「ん、ぅ……」
ぬるりと、舌の上を攫うように彼の舌が動く。飴玉を取られたのだと、フランセットは知った。
唇を少しだけ離し、メルヴィンが呟く。
「……甘いな」
「あ、飴玉なんだから、当たり前です。そんなことよりいきなりキ、キ、キスするなんて」
ガリ、と音がした。メルヴィンが飴を噛んだのだ。
「ああ、そうじゃなくて。フランセットの声が」
「声?」
「もう一回」
「待っ――」
腰を抱き寄せられて、後ろ頭に手を差し入れられて、再びメルヴィンの口付けにさらされる。
飴の甘ったるさの残るメルヴィンの舌が、また入ってきて、縮こまるフランセットのそれを優しく撫でた。
「や、も……」
「ほら、その声」
は、と間近で彼が熱い吐息を漏らす。目を開ければ、メルヴィンの静かな漆黒の瞳が濡れたように光っていた。
「甘ったるくて、かわいい」
「王太子、殿下」
力の抜けた体を(不本意ながらも)メルヴィンに預けながら、フランセットは言った。
「手慣れすぎじゃ、ないです?」
「そうかな。本能のままに動いただけなんだけど」
「本能、って」
「もう少し先まで、本能に従ってもいい?」
「っ、だめ! だめー!!」
ふいに抱き寄せられて、フランセットは渾身の力でべりっとメルヴィンを引きはがした。「いたた」とメルヴィンは顔をしかめている。
こんな調子で、馬車の中で二週間。
とても保たない。
「王太子殿下。わたし、別の馬車に移動」
「却下」
王太子殿下は反応速度も超一流だった。