第三章
窓から西日が差していた。
フランセットは、寝室の広いベッドに横たわっていた。睡眠薬を飲んだら急速に眠気に襲われて、レイスを見送ってからすぐに、ドレスを脱ぎ捨ててベッドに倒れこんだのだ。
シュミーズ姿で昼寝を貪るなどというはしたない行為は、普段のフランセットならば天地がひっくり返ってもしないことだ。これまで感じたことのないほどの強烈な睡魔を前に、マナーなど吹き飛んでしまったのである。
「暑い……窓を閉めきったまま寝てしまったのね」
頭がまだぼうっとしていた。密閉された室内は、夏の西日を浴びて温度がひどく上がっている。
うっすらと汗ばんでいる腕をさすったとき、フランセットは自分が裸でいることに気づいた。暑かったから、無意識にシュミーズを脱いでしまったのだろうか。なんと、ドロワーズまで脱いでしまっている。いくら暑かったとはいえ、全裸になったらだめだろう。反省しつつ、クラクラする頭をてのひらで支えながらフランセットは身を起こす。
違和感に気づいたのはそのときだった。
「……?」
ベッドはこんなに広かっただろうか。
まるで、広大な海を前にしたかのようにベッドの端が遠い。
フランセットはまばたきをする。次いで、上を見た。天蓋も遠い。季節はずれだが、秋空のように高いところにあり、ベッドの上に立って背伸びをしたとしても、手が届かないように思える。
しかし、そんなはずはない。フランセットの身長は一六〇センチ近くある。背伸びしなくても、手はちゃんと届くはずだ。
最後にフランセットは、自分が座っているシーツに視線を落とした。そこで、自分がお尻に敷いているのはシーツではなく、リネンの衣類だということが判明した。
「……。ちょっと待って」
つぶやいて、フランセットは全裸のまましばし沈黙した。
このリネンの衣類は、寝る直前まで自分が着ていたシュミーズなのではないだろうか。その先に視線を移してみると、ドロワーズらしきものもある。
けれど、明らかにおかしい。
フランセットの下着にしては、|大きすぎる《・・・・・》。
「ちょっと待ってよ」
フランセットは混乱しかけた。しかし、混乱に陥ったら事態がよけいに悪くなるだけだと自分に言い聞かせた。
ありえない現象だとか、これは夢かもしれないだとか、そういった考えを全部とっ払って、事実だけを認識するのであれば、答えはひとつだ。いや、ふたつかもしれない。
フランセットの体が、小さくなっている。
もしくは、この世界全体が巨大化している。
「落ち着くのよ、フランセット」
冷や汗がダラダラと流れたが、深呼吸をくり返してなんとか冷静さを保つ努力をする。と、「チー」という鳴き声が聞こえてきたので、フランセットはテーブルのほうを振り向いた。
籠の中にロロがいる。
しかし、デカい。
「ろ、ロロ?」
「チー?」
目が合うと、ロロは不思議そうに首を傾げた。フランセットは、巨大化したロロに恐れおののく。軽く見積もっても、ロロはフランセットの二倍の背丈があるように見えた。
これは、世界が巨大化したわけではない。
フランセットの体が縮んだのだ。
ロロの身長との比較から推測するに、おそらく身長十センチほどまで。
「…………」
なにはなくとも、冷静でいることが肝要だ。気が遠くなりかけながらも、フランセットは自分の状態を再度改めた。
とり急ぎ、全裸のままでは落ち着かない。かといって、さっきまで着ていたルームドレスだと大きすぎる。フランセットは考えたすえ、ドレスの胸もとを飾っていた幅広のリボンを引き抜いて、それを体に巻きつけた。ひざ丈という短さになってしまったが、仕方がない。次に飾り紐を抜いて、腰に巻きつけリボンを固定する。
ひとまずはこれで現状を改善できた。あとほかにできることはないだろうか。
フランセットはしばらく考えたが、これ以上できることがないことを悟り、愕然とした。
なぜ体が縮んでしまったのか。なにより、もとの大きさに戻る方法はなんなのか。これがわからないことには動きようがない。
よって、フランセットが取るべき手段はただひとつ。
頼れる夫・メルヴィンの帰宅を待ち、彼に相談して、解決策を考えてもらうことである。
その結論に達して、フランセットは茫然とした。やがて、がっくりと肩を落とした。
「また、メルヴィンさまに心配と迷惑を掛けてしまうわ」
この現実はフランセットを落ち込ませるのに充分だった。自分の力で解決したいと思っても、ベッドから降りることすら不可能なのだ。十センチに縮んでしまったフランセットにとって、それは断崖絶壁からのダイブに相当する。
「……。でも、仕方がないわ。この現実をちゃんと認めなくちゃ」
落ちこみつつも、フランセットは自分にそう言い聞かせて、枕に腰を下ろした。やわらかい羽根の枕はフランセットの上半身を包みこんでくれる。
侍女には「ものすごく眠いので寝室に行く」ということを伝えてある。フランセットがそう言うのはめずらしいことなので、フランセットから呼び出さないかぎり、使用人がこの部屋を訪れることはないはずだ。
(メルヴィンさまは、今日は夕食までに帰ると言っていたわね。遅くなる日じゃなくてよかった)
おそらく、あと一時間もしないうちに帰ってくるだろう。それまでおとなしく待っていよう。
無力感を持て余しながら、夕暮れの空を窓越しにぼうっと見つめていたら、籠がガタガタと鳴る音がした。びっくりして目を向けると、なんとロロが、籠の柵に体当たりをしている。
「ロロ、だめよ!」
抜糸して間もないのだ。また傷が開いたらいけない。
しかし、フランセットの制止もむなしくロロはたいあたりを続け、ついに籠ごとテーブルの下に落ちてしまった。毛足の長い絨毯の上に落下したため、そこまで大きな音は立たなかったが、衝撃で籠の扉が開いてしまう。
ロロは、よろめきつつも鼻先で出口のあたりを確かめて、それから頭をぷるるっと振り、おそるおそるといった様子で籠の外に出てきた。
動けるということは、傷は開いていないようだ。フランセットはほっとした。
ロロは、毛に覆われた長い尻尾をゆらしつつ、鼻先をヒクヒクさせてあたりを確かめているようだった。最初はゆっくりと、やがて素早い足取りで、絨毯の上を探索し始める。
(窓は閉まっているから、ロロがこの部屋から逃げ出してしまうようなことはないと思うけれど)
フランセットは、ベッドの端から身を乗り出すようにしてロロの動向を窺った。すると、絨毯の上を探索し終わったロロが、こちらのほうに顔を向けた。
「チー!」
ロロの尻尾がぴんと立った。直後、ものすごいスピードでこちらに駆け寄り、ベッドの柱を軽々と登って、ロロはシーツの上に到達する。
ロロとフランセットの距離は、およそ二メートル。
身長十センチのフランセットにとって、その距離はとても遠い。それに、ロロはフランセットの可愛い友人だ。
だから、恐怖なんて感じる必要はまったくない。
そのはずなのに、自分の倍の大きさをしたロロにじっと見つめられて、フランセットは恐れ慄(おのの)いた。
(いまの状態でロロにじゃれつかれてしまったら、致命傷になりかねないわ……!)
どうやらロロは、この姿でもフランセットのことをちゃんと認識しているようで、黒い瞳をきらきらと輝かせている。ご機嫌な様子が伝わってくるが、体ごと体当たりされたのちにスリスリされでもしたら、押しつぶされてしまうだろう。
「チー、チチチー」
「ロロ。ちょっと待って。いい子だからそこにいて」
フランセットは慎重にロロに言い聞かせた。ロロは首をかしげる。
「チー?」
「いい、ロロ。こっちに来ちゃだめよ。あとで遊んであげるから、そこで大人しくしていて」
「チー!」
しかし、残念ながらロロは人間の言葉を理解する能力を持ち合わせていなかった。それどころか、なにを勘違いしたのか目をらんらんと輝かせて、唐突にこちらに突進してきた。フランセットは蒼白になる。
あっというまに間近に迫り、鼻息も荒く後ろ足を蹴り上げて、ロロはフランセットに飛びかかってきた。フランセットが悲鳴を上げて、その場にうずくまった――そのときである。
「チッ!?」
驚いたような鳴き声をロロが発した。体当たりの衝撃が来なくて、フランセットはおそるおそる顔を上げる。
自分の上に大きな影が差していた。その影の主と目が合って、フランセットは安堵のあまり腰が抜けてしまう。
一方でメルヴィンは、片手でロロットをつかまえた状態のまま、フランセットを見下ろして愕然とした表情になった。
フランセットとメルヴィンは、見つめ合ったまま十秒ほど沈黙した。メルヴィンの左手の中で、ロロが抗議の声を上げながら暴れている。
「……。ええと」
茫然とした顔で、メルヴィンが言った。
「フランセット、だよね?」
「はい、フランセットです」
シーツの上にへたりこんだまま、フランセットはうなずく。
そして、事実をあるがままに告げた。
「寝て起きたら体が縮んでいました。メルヴィンさま、もとに戻るにはどうしたらいいと思いますか?」