さーっとフランセットの顔から血の気が失せた。
公式の場では、それらしく振る舞えるところがフランセットの特技だ。けれど、そうでない場所ではつい、素が出てしまう悪癖があった。
「も、申し訳ありません! 王女にあるまじき……い、いえ、お、王太子妃、に、あるまじき、はしたない行為でした……!」
王太子妃になったなどと、認めたくはない。けれど、騙しうちとはいえ契約書にサインをしてしまい、お輿入れの馬車に乗っている以上、対外的にはフランセットは、メルヴィンの妃である。だからウィールライト王室の品位を下げるようなことを、してはならない。
(それくらいの分別は、わたしにもあるわ)
メルヴインの評判を落とさないよう、けじめはきちんとつけたかった。
「今後、ああいう場合は他の者を呼びます。どうかお許しください、メルヴィン殿下」
彼よりも高い位置にいてはいけない。フランセットは両膝を折って、地面についた。フランセットのドレスがふわりと広がって、彼の足先に触れる。
それからメルヴィンを見上げると、彼はびっくりしたような顔になったあと、困ったように笑った。
「ああ、そうか。あなたは真面目なんだね」
「え?」
「ウィールライトの王室はそう堅苦しいところじゃないから、気にしなくていいよ。僕のすぐ下の弟は女遊びばかりしてるグータラだし、その下の弟のアレンは庶民みたいな服を着て、剣ひとつぶら下げて年中王国内を探索してるしね」
「ええっ」
「僕らの国は歴史が古いし大きいかもしれないけれど、みんな好きに生きてるから」
メルヴィンは優しく笑って、フランセットの頬に触れた。
(この方、わたしの頬を触るのが好きなのかしら)
彼の微笑みに見とれながら、フランセットはぼんやりとそんなことを思った。
「だからあなたも、あなたらしくいて」
フランセットは言葉を失い、目をゆっくりと見開いた。メルヴィンは変わらず、優しげに微笑んでいる。
(わたしらしく、だなんて)
フランセットは唇を噛んで、うつむいた。
そんな言葉を、そういう優しい表情で言われてしまうと、悔しいけれど嬉しく感じてしまう。
うつむきながら、ぽつりと言葉を零した。
「……そんなこと」
「ん?」
「そんなこと、大きな責任を負う王太子殿下が、仰る言葉ではありません。大国の王族として、ふさわしい立ち居振る舞いをしなければならないでしょう?」
「うん」
メルヴィンは嬉しそうに笑う。それからフランセットの頬を両手で包んで、そっと上向かせた。
「フランセット、顔が真っ赤だ」
「ゆっ、夕日が反射してるだけです!」
「キスしたいな」
「ええ?!」
「キスしてもいい?」
「こっ、ここは、そ、外ですから!」
「うん」
知ってるよ。
そう告げながら、メルヴィンが少しだけ顔を傾けて、近づいた。その行為はとてもゆっくりだったから、フランセットが止めようと思ったら、止めることができた。
それなのに。
「……。ねえ。フランセット」
唇に余韻が甘く残る。吐息の触れる距離で、メルヴィンは囁いた。
「僕は、あなたが危ないことをしようとすることが、嫌なだけだ」
彼の、綺麗な瞳に切なさがよぎった。
「ドレスならいい。けれど、あなた自身は嫌だ」
もう一度、唇が重なる。
やわらかく溶けてしまうような触れあいを、フランセットはこの時初めて、心地いいと感じた。
*
(……って、見事に懐柔されかけたけど!)
プレミアムな部屋に帰り着いた時、フランセットはハッと我に返った。
(そもそも婚約だと偽って婚姻届にサインさせるっていう暴挙に出たのは殿下の方だわ。よくよく思い出してみれば、あの第三王子殿下は、別の紙でうまいこと婚姻誓約書の文字を隠していたような気がするし)
今夜はこの件について、じっくり問いただしてみよう。
フランセットは拳を握って決意した。
(もしそこで、殿下から誠意のある対応が返ってきたら。そうしたら)
そうしたら?
どうしてか頬が熱くなってきて、両手で頬を押さえた。
(だって本当に……悪いお方では、ないかもしれないんだもの)
むしろ、風船を取ることを手助けしてくれて、不安な気持ちを掬い上げてくれた。
フランセットはドキドキし始めた心を持て余し始める。
(と、とにかく、平常心よフランセット。まずは今夜、きちんと殿下と話し合って……)
そこでふと、気がついた。
(ん? 夜?)
部屋係に案内された時、「こちらが王太子殿下と妃殿下のお部屋にございます」と言われたことを思い出す。
そして、室内のベッドは独り寝するにはやけにデカい。
「……?!」
「ああそうだ、フランセット。先に夕食にする? お風呂にする?」
「えっ、な、なに、なんです?」
「どっちでもいいなら、先にお風呂にしようか。広い湯船があるみたいだし、僕と一緒に入ろう」
「お断りします!!」
メルヴィンの表情は、今日一番のがっかり感を醸し出していた。