04

「何も知らないとは、こういうことか。おまえの身は今、非常に危険だ。いいか、よく聞け」

 シンは長い足でこちらに近づいた。思わず後ずさったあたしの肩をつかみ、正面から見据える。

「おまえを狙う者はたくさんいる。オレから決して離れるな。オレの刀が届く範囲にいろ」

 刀、と口の中で繰りかえした。
 固まる目を無理やり動かして、シンの腰のあたりを見る。そこには確かに、鞘(さや)に仕舞われた刀がさがっていた。
 足もとから恐怖が這いあがってくる。

「どうして――刀なんて持ってるの」

 シンはわずかに眉を寄せた。
 「何を当たり前のことを言っている」と言いたげな目だった。

「どうやらおまえの常識と、オレの常識はかけ離れているようだ」

 そうして、この狭い部屋にひとつしかない窓を見た。
 さっきより暗がりが増している。

「夜がくるな」

 夜、という言葉に熱が帯びた。
 あたしはギクリとして、シンを見る。
 シンは窓から目を離し、あたしをじっと見た。彼は野獣のようだ。固くしなやかな筋肉を、チャコールグレーの上衣が包んでいる。上衣は長く、膝上のあたりまであった。防寒のためだろう、裏地の白い毛皮が立ち襟(えり)からのぞいていた。さらに、腰のあたりを太い黒色の帯で結んでいる。すり切れたズボンと、ブーツも黒い。闇にまぎれたらきっと、見つけられることはないだろう。
 テレビで見たことがある。シンは、黒豹のようだ。

「オレは――楓子。『本当の意味で』、おまえに会いたいと願っていた」
「どういうこと……?」

 シンの言葉は、疑問しか生まない。

「簡単なことだ」

 シンの腕が伸ばされ、あたしの腰にからんだ。
 青色の瞳の奥で、炎がゆれている。
 その炎に囚われたかのように、あたしの手足は動かなかった。
 もうひとつの手が髪をなでる。肩まで伸ばした、クセのないあたしの髪。大きな手は髪をすべり、甲で頬に触れた。
 壊れ物のように、扱われている。
 それなのにシンの目は、獣のように光っているのだ。

「おまえを、愛している」

 そして彼はあたしに、2度目の口づけをした。
 息ができないほど、深く。

「や、めて――、シンっ……」

 両手首はひとつにまとめられ、頭上に繋ぎとめられた。
 古いベッドが鈍く軋(きし)む。
 太陽は急激に沈み、地平線がうっすら白く染まる程度だ。闇が落ちた部屋に、ストーブの小さな火がゆれている。
 それが、むきだしになったあたしの肩を照らす。
 シンは武骨な指で器用にカーディガンのボタンをはずした。鋼のような体躯(たいく)を前に、あたしの抵抗なんて、風にそよぐ草のようなものだ。

「美しい肌だ」

 低音が、耳朶をなぶる。
 背筋がゾクリとして、身震いした。
 シンの手によってずらされたキャミソールは、今や腹部を覆うのみだ。ブラの肩紐が外れかけた肩に、シンの舌が這った。
 ――熱い。
 あたしは声にならない声をあげた。
 シンの唇はさらに下がり、鎖骨を這う。ブラの上から、大きなてのひらがふくらみを包み、やわらかく押しつぶした。

「楓子」

 熱にうかされたような声で、シンが呼ぶ。
 激しく光る両目が迫り、口づけされた。
 唇を味わうように舌でなぞられる。その感触に、腰がはねた。シンはすでに、上衣を脱いでいる。胸板の、筋肉の動きと熱い皮膚が直接伝わってくる。彼の腕はベッドとあたしの背中の間に入りこみ、きつく体を抱きしめていた。
 酸素を求めて開けた歯の間から、熱くぬめるものが押し入ってきた。逃れようとするあたしの舌を逃さず、とらえ、からめとる。

「ん……! んっ……」

 唇のすきまから、吐息のような声がもれる。
 指先が震える。
 怖い。
 ただ、怖かった。
 どうしてこんなことになったのか、まったくわからなかった。
 男の人がなんとなく苦手で、ずっと避けてきた。
 それなのにどうして、あたしは今、こんなふうになっているのだろう。
 濃密な口づけが終わり、シンはあたしを見下ろした。
 その瞳に、唐突に切なさが走る。

「なぜ、泣く」

 小さく、暖炉の火が爆ぜた。
 またそういう目をする。
 傷つけられようとしているのはあたしなのに、どうしてシンの方が痛みを感じているのだろう。
 それは、ずるい。
 あたしはこんなにも、怖いのに。

「オレのことが嫌いになったのか」

 まるでずっとあたしがシンのことを好きだったかのように、いう。
 本当に、彼の言葉はわからないことだらけだ。

「怖いの」

 声が震えた。
 シンが目を見開いた。

「怖い。こんなの嫌だ」

 さらに涙があふれた。
 シンがあたしの手首から手を離した。自由になって掌で顔を覆った。背中を抱いていたもう一本の腕が離れた。素肌が冷気に晒される。思わず身震いすると、彼の上衣がそっとかぶせられた。裏地の毛がやわらかに体を包む。

「――すまない」

 かすれた低音が、降ってきた。
 あたしは顔を覆っていたから、彼の顔を見られなかった。

「おまえは本当に、何もかもを、知らないのだな」

 心に凍(し)みるほど、切ない声音だった。
 あたしは思わず手をどけた。
 シンが泣いているかもしれないと思ったからだ。
 しかしもうすでに彼はあたしに背を向けて、ベッドから降りるところだった。

「床で寝る。もう指一本触れないから、安心して眠れ」