「ここから日没まで、ゲルはない。休憩は野外でとる。日没には少し大きな街に着くから、そこで一泊する予定だ」
シンの言葉どおり、少しずつ休憩をはさみながら一気に駆ける。しばらくすると、馬の体がら白い蒸気がわずかに立ちのぼってきた。シンに聞いてみると、それは馬の湯気のようなものだという。空気が冷たく、馬の体温が高いため、このような現象が起こる。
太陽がきらめいて雪原がまぶしい。あたしは時折目をこすりつつ、馬の揺れに耐えた。自分でも、がんばったと思う。
アルトゥさんのごはんもおいしかった。革袋に入った水と一緒に食べた。チーズは濃厚で、パンは少し固かった。
昼食を終えて、荷物をまとめていた時、ふいにシンが遠くへ目をやった。その動作が鋭かったから、あたしは異変を感じた。
「どうしたの?」
「静かに」
シンがあたしの唇に指をあてた。耳をすますような顔つきのあと、舌打ちする。
「もう勘づいたか」
低く言って、手早く荷物をまとめ、馬の背にぶらさげる。腰の刀を確かめるようにつかんだあと、あたしを振りかえった。
澄んだ青い目が、厳しい光をはらんでいる。
「狼が来る。おまえはオウルから離れるな」
オウルは馬の名前だ。あたしは戸惑いつつも、言われたとおりにする。
「狼って、人を襲うの?」
「いや、それはめったにない。狼は家畜を襲う。だがそれは、普通の狼であれば、の話だ」
背に負っていた弓を引きぬき、矢をつがえる。キリキリキリ、と弦(つる)の音が耳を引っ掻いた。
その時、あたしの目にも影が映った。雪原のかなたから、まっすぐにこちらへ向かってくる。徐々に躍動する毛皮が見えてきた。4匹? 5匹? わからない。
シンが1本目の矢を放った。空気を切り裂いて、高く弧を描き、まっすぐに狼へ落ちていく。
1匹がもんどりうって倒れた。
あたしは思わず、口を手で覆う。声を上げてしまいそうだったからだ。
シンは次々と矢を放つ。そのたびに、狼が倒れる。2匹、3匹、4匹。でもまだいる。あと3匹。疾駆(しっく)する狼はどんどん近づいてきて、その息遣いすら聞こえてきた。想像よりも大きい――。あたしは竦(すく)みあがった。銀の毛が太陽に輝いて、踊るように駆けてくる。
シンが弓を背負い、刀を抜いた。時代劇で見た日本刀に似ているけど、それよりも反(そ)りがある。
「楓子、そこを動くな」
短く命じて、シンは狼を迎えうった。1匹目は走りざまに斬り裂き、鮮血が散った。あたしは愕然と、雪原を染める赤を見た。もう1匹を斬るスキを狙って、別の狼がこちらへ向かってきた。オウルがいななく。あたしは声すらあげられない。銀色の狼の、青色の目が、まっすぐにあたしを貫く。
シンが振りむき、剣を放(はな)った。狼はあたしに迫る直前で刃に首を貫かれ、雪原に倒れこんだ。あたしの足元で、ヒクヒクと手足を震わせ、首から血を流した。
「ケガはないか?」
シンが駆け寄ってきた。あたしは動けない。狼から目が離せない。
「楓子――」
シンの両手が、あたしの頬をつつんだ。やっと目をあげると、青い目とかちあった。心配そうに、ゆれている。
「どうした? どこか痛いところがあるのか?」
この人は、あたしが何に衝撃を受けているのかを理解していない。
それがシンとあたしを、深く隔てる深淵だった。
きっとこういうことは、日常茶飯事なのだ。
でもあたしは、こんなの、嫌だ。
のどが震えた。目の奥が痛くなって、涙がこぼれた。
「帰りたい」
シンは目を見開いた。
「こんなところは嫌だよ。もとの場所にかえして。お願いシン、かえして――」
あたしはそのまま、シンの胸に顔をうずめた。シンはぎこちなくあたしを抱く。それはやがて、強い抱擁になった。
「すまない」
かすれた低音が、耳朶に触れる。
「こうするしかなかった。オレはもう、限界だった――」
息苦しいほどに抱きしめられながら、あたしはずっと、涙を流し続けた。