13

「ただ心配なだけだ。気になって眠れない」

 1日シンと密着して馬に乗っていたせいか、こうされることに慣れてしまった。全身の筋肉が重い今、太い腕に支えられることに心地よさすら感じている。
 思わず身をゆだねそうになったとき、ピリ、と脳を突き刺す警告が走った。――駄目だ。男の人は、避けなければならない。昔から本能のように、あたしを支配する危機感だ。
 物心ついた時から、男の人が苦手だった。いつも避けて生きてきた。不自然なほどの本能だ。もしかしたら、あたしにだけ見えるという青い目と何か関係があるのだろうか。

「……あたしも、全身痛い。だからすぐに寝ると思う」

 シンからそっと体を離す。綺麗な青い目があたしを見つめていた。この色が、あたしにしか見えないものだったなんて。唐突に、鋼色の髪に触れたい衝動にかられる。
 そうしないように、あたしはてのひらを閉じた。
 すると、あたしの戸惑いを押しやるように、シンがいった。

「もう少し、抱きしめさせてくれ」

 たくましい腕が伸ばされ、引きよせられた。あたしには、拒否する余力があった。でもなぜか、しなかった。
 シンは自身の足の間にあたしを座らせて、背中から抱きしめた。ストーブの火が爆(は)ぜる。静かだ。

「おまえからはいつも、いい匂いがする」

 シンの指が、あたしの右肩のボタンをはずした。そうして露(あら)わになった肌に、顔をうずめた。首すじに、熱い唇の感触がする。
 あたしの中でまた、熱がともった。この熱を、どうしていいのかわからない。「シン」と制止の声をあげる。シンは唇を離して、あたしを強く抱きしめる。

「楓子。おまえは『向こうの世界』でつらい思いをしていなかったか」
「向こうの、世界……?」

 シンがそっと、まぶたにキスを落とした。

「アリオト雪原に降りる前に、いた世界だ」
「ああ……そのこと」

 あたしは朦朧とした頭で考えた。
 突然道ばたに現れた子ども、記憶を持たない子ども。それがあたしだった。
 あたしはそこで、つらい思いをしたんだろうか。
 まるで人ごとのように、今までの思い出が通りすぎた。そしてふいに、頭で考えるより先に、言葉が口からすべりでた。

「淋しかった」

 シンが息をとめた。

「ひとりきりだった。だから、淋しかった」

 ――こんなこと、今まで絶対に口にしなかった。
 感情を乱さずに、波風立てずにいることが生きていく術だった。
 施設の院長先生や指導員、学校の先生や友達、バイト仲間、さまざまな事情を抱えた施設の子たち。周りにはたくさんの人がいた。でも誰にも心のうちをさらしたことはなかった。
 つらいことなんてない。あたしだけじゃない。みんなつらい。みんな悲しい。みんな泣きたい。
 でも、ただあたしは、ひとりきりだった。
 それだけがずっと、心の底に凍りつき、あたしを冷やし続けていた。

「すまない楓子」

 何度目かの謝罪を、シンが口にした。
 シンの声はわずかに震えていた。

「すべてオレのせいだ。淋しい思いをさせて、すまなかった」

 シンは大きな手であたしの髪を撫でながら、くり返しいう。
 時にひたいや頬に口づけを落としながら。
 あたたかい。
 どうしてこの人のてのひらや、唇や、腕の中は、こんなにあたたかいんだろう。
 あたしはシンを見つめた。透きとおる氷のような青だ。シンの顔に手を伸ばし、頬に触れた。それで、自分の指先がとても冷たいことに気づいた。
 思わず手を引くと、シンがそれを捕まえた。

「楓子」

 シンの声が、切なくかすれた。
 彼の唇があたしのそれに重なり、やがてきつく求められた。あたしたちの間を激情で埋めるように、シンは何度も角度を変え、舌をからめとった。
 あたしは呼吸すらままならず、ただひたすらに、それを受けとめた。
 この人も、淋しさを抱えているのかもしれない。
 ふいに、そんなことを思った。
 もしかしたら、あたし以上に。

 シンはやがて、あたしを抱きしめたまま、ベッドに横になって眠ってしまった。体を起こそうと思っても、シンの両腕がきつくからんでできなかった。
 あたしは星空をあきらめ、シンの胸もとに顔を寄せた。
 いつもの干し草の匂いがして、安堵感に包まれながら目を閉じた。