「ただ心配なだけだ。気になって眠れない」
1日シンと密着して馬に乗っていたせいか、こうされることに慣れてしまった。全身の筋肉が重い今、太い腕に支えられることに心地よさすら感じている。
思わず身をゆだねそうになったとき、ピリ、と脳を突き刺す警告が走った。――駄目だ。男の人は、避けなければならない。昔から本能のように、あたしを支配する危機感だ。
物心ついた時から、男の人が苦手だった。いつも避けて生きてきた。不自然なほどの本能だ。もしかしたら、あたしにだけ見えるという青い目と何か関係があるのだろうか。
「……あたしも、全身痛い。だからすぐに寝ると思う」
シンからそっと体を離す。綺麗な青い目があたしを見つめていた。この色が、あたしにしか見えないものだったなんて。唐突に、鋼色の髪に触れたい衝動にかられる。
そうしないように、あたしはてのひらを閉じた。
すると、あたしの戸惑いを押しやるように、シンがいった。
「もう少し、抱きしめさせてくれ」
たくましい腕が伸ばされ、引きよせられた。あたしには、拒否する余力があった。でもなぜか、しなかった。
シンは自身の足の間にあたしを座らせて、背中から抱きしめた。ストーブの火が爆(は)ぜる。静かだ。
「おまえからはいつも、いい匂いがする」
シンの指が、あたしの右肩のボタンをはずした。そうして露(あら)わになった肌に、顔をうずめた。首すじに、熱い唇の感触がする。
あたしの中でまた、熱がともった。この熱を、どうしていいのかわからない。「シン」と制止の声をあげる。シンは唇を離して、あたしを強く抱きしめる。
「楓子。おまえは『向こうの世界』でつらい思いをしていなかったか」
「向こうの、世界……?」
シンがそっと、まぶたにキスを落とした。
「アリオト雪原に降りる前に、いた世界だ」
「ああ……そのこと」
あたしは朦朧とした頭で考えた。
突然道ばたに現れた子ども、記憶を持たない子ども。それがあたしだった。
あたしはそこで、つらい思いをしたんだろうか。
まるで人ごとのように、今までの思い出が通りすぎた。そしてふいに、頭で考えるより先に、言葉が口からすべりでた。
「淋しかった」
シンが息をとめた。
「ひとりきりだった。だから、淋しかった」
――こんなこと、今まで絶対に口にしなかった。
感情を乱さずに、波風立てずにいることが生きていく術だった。
施設の院長先生や指導員、学校の先生や友達、バイト仲間、さまざまな事情を抱えた施設の子たち。周りにはたくさんの人がいた。でも誰にも心のうちをさらしたことはなかった。
つらいことなんてない。あたしだけじゃない。みんなつらい。みんな悲しい。みんな泣きたい。
でも、ただあたしは、ひとりきりだった。
それだけがずっと、心の底に凍りつき、あたしを冷やし続けていた。
「すまない楓子」
何度目かの謝罪を、シンが口にした。
シンの声はわずかに震えていた。
「すべてオレのせいだ。淋しい思いをさせて、すまなかった」
シンは大きな手であたしの髪を撫でながら、くり返しいう。
時にひたいや頬に口づけを落としながら。
あたたかい。
どうしてこの人のてのひらや、唇や、腕の中は、こんなにあたたかいんだろう。
あたしはシンを見つめた。透きとおる氷のような青だ。シンの顔に手を伸ばし、頬に触れた。それで、自分の指先がとても冷たいことに気づいた。
思わず手を引くと、シンがそれを捕まえた。
「楓子」
シンの声が、切なくかすれた。
彼の唇があたしのそれに重なり、やがてきつく求められた。あたしたちの間を激情で埋めるように、シンは何度も角度を変え、舌をからめとった。
あたしは呼吸すらままならず、ただひたすらに、それを受けとめた。
この人も、淋しさを抱えているのかもしれない。
ふいに、そんなことを思った。
もしかしたら、あたし以上に。
シンはやがて、あたしを抱きしめたまま、ベッドに横になって眠ってしまった。体を起こそうと思っても、シンの両腕がきつくからんでできなかった。
あたしは星空をあきらめ、シンの胸もとに顔を寄せた。
いつもの干し草の匂いがして、安堵感に包まれながら目を閉じた。