14

 唐突に、暗闇がピリリと振動した。
 まぶたを上げる。まだ暗い。シンの腕の中だ。あたしは首をよじって、部屋の真ん中の方をみた。ストーブの火がわずかに燻ぶっている。
 体にからむシンの腕からは、力が抜けている。熟睡しているのだろう。そっと腕を持ち上げて、あたしはシンから抜けだした。
 さっきの感覚は、何だろう。
 あたしは毛皮のショールを引き寄せて、窓のそばに立つ。感嘆のため息をもらした。紺青の星空だ。雪原の空は無辺で、はるかに高く、どこまでも広がっていた。白だったり金だったり青だったりの、小さな光が惜しげもなく散りばめられている。

「綺麗」

 つぶやきと一緒に、どうしてか、涙がひと粒こぼれた。
 なぜ泣くのか、自分でもわからなかった。
 ずっと見ていた。流れ星が3つくらい走った。
 しばらくするとまた、暗闇が振動した。ピリリ、と首すじに静電気が伸びるようだ。それは扉の方からきていた。振りかえって、そちらを見た。
 粗末な木製の扉は沈黙している。シンを見てみると、静かに寝息をたてていて、動かない。
 ――明日、シンに聞いてみよう。
 体も冷えてきたので、ショールを肩にかけたまま、ベッドに戻った。ちょっと迷ったけど、あたたかいシンの腕にもう一度入ろうと思って、手を伸ばした。その時また、ピリっと静電気が走った。指先を狙い撃ちされた。あたしは手をとめて、再度扉を振りむいた。
 木製の扉が、軋んだ。ゆっくりと開くのを、あたしは動けずにただ、見ていた。
 冷気が室内にすべりこむ。そして、人影が見えた。背が高い。男だ。

「シン――」

 扉を見つめたまま、震える手でシンを揺らした。けれどシンは、目覚めない。

「誰?」

 声を投げる。廊下の暗闇から、ストーブが燻ぶる薄闇へ、男は姿を現した。
 あたしは愕然と、目を見開いた。
 彼のことを、知っていた。
 部屋の中に入り、彼はゆっくりと微笑む。上衣(ディール)と毛皮のショール、帽子を纏っていた。彼はいつも、ジーンズをはいていたのに。

「こんばんは、楓子さん」

 色素の薄い髪と、長身。
 あたしは信じられない思いで、彼の名を呼んだ。

「深山(みやま)君――」

 この世界に来る直前まで、一緒にいた男。深山君は、いつもの涼しげな双眸で、穏やかにあたしを見つめていた。そして、彼の目は確かに今、『青かった』。

「どうして、深山君がここにいるの?」

 現実感がない。
 次から次へと、判読できないできごとが起こる。
 あたしはただそれを、人差し指でなぞっているだけだ。

「ごめん、寒かったね」

 深山君はあたしの質問にこたえずに、扉を閉めた。冷気の流れが止まり、静寂が訪れた。

「どうしてここにいるの」

 もう一度きいた。
 深山君は微笑んだまま、いった。

「君を助けに来たんだ」

 その言葉は、想像以上の衝撃をもたらした。
 助けに来たということは、『もとの世界に戻れる』ということだろうか。
 どうやって、とか、そういう疑問は、戻れるかもしれないという事実の前に氷解した。あたしは思わずベッドから立ちあがった。

「戻れるの? 日本に」
「そうだよ」

 深山君はあたしに手を差しのべた。誘われるように、それをとる。
 ――帰れる。
 またあの日々に戻れる。
 波風のない、淡々として、平和で、陰鬱で、――ひとりきりの。

「シンに、言わないと」
「駄目だ、楓子さん」

 深山君があたしを引きよせていった。

「彼は危険だ。あの男が楓子さんをこの世界に攫(さら)った。僕のことを知ると、彼は帰還を邪魔してくるだろう。このまま行こう」
「シンのことを知っているの?」
「知っている。とても、よく」

 深山君の笑みが深く、影をつくった。
 氷のような青い目だ。狼や、シンと同じ色。
 青い目をした男は、あたしを狙っている。シンの言葉を思い出して、あたしは少し身をひいた。