唐突に、暗闇がピリリと振動した。
まぶたを上げる。まだ暗い。シンの腕の中だ。あたしは首をよじって、部屋の真ん中の方をみた。ストーブの火がわずかに燻ぶっている。
体にからむシンの腕からは、力が抜けている。熟睡しているのだろう。そっと腕を持ち上げて、あたしはシンから抜けだした。
さっきの感覚は、何だろう。
あたしは毛皮のショールを引き寄せて、窓のそばに立つ。感嘆のため息をもらした。紺青の星空だ。雪原の空は無辺で、はるかに高く、どこまでも広がっていた。白だったり金だったり青だったりの、小さな光が惜しげもなく散りばめられている。
「綺麗」
つぶやきと一緒に、どうしてか、涙がひと粒こぼれた。
なぜ泣くのか、自分でもわからなかった。
ずっと見ていた。流れ星が3つくらい走った。
しばらくするとまた、暗闇が振動した。ピリリ、と首すじに静電気が伸びるようだ。それは扉の方からきていた。振りかえって、そちらを見た。
粗末な木製の扉は沈黙している。シンを見てみると、静かに寝息をたてていて、動かない。
――明日、シンに聞いてみよう。
体も冷えてきたので、ショールを肩にかけたまま、ベッドに戻った。ちょっと迷ったけど、あたたかいシンの腕にもう一度入ろうと思って、手を伸ばした。その時また、ピリっと静電気が走った。指先を狙い撃ちされた。あたしは手をとめて、再度扉を振りむいた。
木製の扉が、軋んだ。ゆっくりと開くのを、あたしは動けずにただ、見ていた。
冷気が室内にすべりこむ。そして、人影が見えた。背が高い。男だ。
「シン――」
扉を見つめたまま、震える手でシンを揺らした。けれどシンは、目覚めない。
「誰?」
声を投げる。廊下の暗闇から、ストーブが燻ぶる薄闇へ、男は姿を現した。
あたしは愕然と、目を見開いた。
彼のことを、知っていた。
部屋の中に入り、彼はゆっくりと微笑む。上衣(ディール)と毛皮のショール、帽子を纏っていた。彼はいつも、ジーンズをはいていたのに。
「こんばんは、楓子さん」
色素の薄い髪と、長身。
あたしは信じられない思いで、彼の名を呼んだ。
「深山(みやま)君――」
この世界に来る直前まで、一緒にいた男。深山君は、いつもの涼しげな双眸で、穏やかにあたしを見つめていた。そして、彼の目は確かに今、『青かった』。
*
「どうして、深山君がここにいるの?」
現実感がない。
次から次へと、判読できないできごとが起こる。
あたしはただそれを、人差し指でなぞっているだけだ。
「ごめん、寒かったね」
深山君はあたしの質問にこたえずに、扉を閉めた。冷気の流れが止まり、静寂が訪れた。
「どうしてここにいるの」
もう一度きいた。
深山君は微笑んだまま、いった。
「君を助けに来たんだ」
その言葉は、想像以上の衝撃をもたらした。
助けに来たということは、『もとの世界に戻れる』ということだろうか。
どうやって、とか、そういう疑問は、戻れるかもしれないという事実の前に氷解した。あたしは思わずベッドから立ちあがった。
「戻れるの? 日本に」
「そうだよ」
深山君はあたしに手を差しのべた。誘われるように、それをとる。
――帰れる。
またあの日々に戻れる。
波風のない、淡々として、平和で、陰鬱で、――ひとりきりの。
「シンに、言わないと」
「駄目だ、楓子さん」
深山君があたしを引きよせていった。
「彼は危険だ。あの男が楓子さんをこの世界に攫(さら)った。僕のことを知ると、彼は帰還を邪魔してくるだろう。このまま行こう」
「シンのことを知っているの?」
「知っている。とても、よく」
深山君の笑みが深く、影をつくった。
氷のような青い目だ。狼や、シンと同じ色。
青い目をした男は、あたしを狙っている。シンの言葉を思い出して、あたしは少し身をひいた。