そこへ、扉がノックされ「夕餉をお持ちいたしました」と、鈴のような声が聞こえてきた。ヘレムさんが返事をすると、2人の少女が入ってくる。大きなお盆にたくさんのお椀を載せて、あたしたちの前に置いた。
まだ10歳にも満たないように見える。肩の上で切り揃えられた髪が、つややかに揺れていた。
少女たちは配膳を終えると、「ごゆっくりどうぞ」と一礼して出ていった。
「さ、まずはお酒を」
「いや、今夜はいい」
「そんなことを仰らずに」
陶器の椀(わん)に、ヘレムさんはなみなみとそそぐ。そうされると、呑まないわけにはいかないらしい。シンは顔をしかめながらも、ひと息で呑みほした。
たぶんお酒は別料金なんだろうな、と思った。頭の片隅が、変に冷静になっている。
「貴女様(あなたさま)もお呑みになりますか?」
「あたしは体調が悪いからちょっと……」
「これはツァグなので、お体に残らないお酒ですよ」
「いや、楓子は駄目だ」
シンが首をふる。すぐさまヘレムさんが、シンに顔を近づけた。しなやかな指先が、シンの頬にそっと触れる。
「このように可愛らしい恋人様に、お酒のひとつもご馳走して差し上げないのですか?」
「そっそういうわけでは――」
「あたし、飲みます」
きっぱりといった。シンがびっくりしてあたしを見る。ヘレムさんがふくみ笑いを浮かべた。
この人の思うとおりになるのはシャクだけど、今のシンを見るのは何だかもっとイヤだ。酔っぱらってさっさと寝てしまいたい。
「ガルヤダの醸造場から特別に取り寄せたお酒ですのよ。さわやかな喉どおりで、きっとお口にあいましょう」
陶器の椀に、透明のお酒がゆれた。口をつけると、きついアルコール臭が目にしみる。これ、何度くらいあるんだろう。
「やめておけ楓子。おまえ、昼にミーシアルヒで酔っぱらったばかりだろう。ツァグは無理だ」
「あらまあ、アルヒで。可愛らしい、幼子(おさなご)のよう」
ヘレムさんがいつのまにか、シンの腕に自分のそれをからませている。あたしはムカムカした。シンはなんでされるがままになってるんだろう。
ムカムカに任せて、椀をあおった。おちょこより少し大きめだ。呑みこむと同時に熱い塊が喉を焼いて、あたしは咳きこんだ。
「楓子、大丈夫か」
立ちあがろうとするシンより先に、ヘルムさんの手があたしの背中をさすった。やわらかくてひんやりした手だ。悔しいけど、気持ちいい。
「大丈夫ですか、お客さま。少し横になられますか?」
「大、丈夫……。平気です」
「無理なさらないでくださいね」
赤い唇が微笑む。ちょっとした憐れみが混じっている。一瞬、悔しい気持ちが湧き上がったけれど、急速に冷えていった。
――バカみたい。
こんなことで、悔しくなって、強いお酒を呑んで。
あたし、やきもちをやいたんだ。
バカみたい。
「ごめんなさい……やっぱり駄目みたいです」
あたしはぽつりといった。背をさすってくれていたてのひらが、止まった。
「ベッドで休みます。シンは、ゆっくりごはん食べてて」
「あ、ああ……。ベッドまで運ぼう」
「すぐそこだよ。歩けるよ」
あたしはテーブルを杖がわりにして立ちあがろうとした。でもちょっとでも動くと頭がぐわんぐわん回って、視界が定まらない。その時力強い手が、あたしをすくいあげた。シンに横抱きにされて、ついたてを通りすぎ、そっとベッドにおろされる。
「寒くないか?」
「……熱い」
意識が朦朧とする。水の中にいるみたいに、シンの顔がぼやけてみえる。
「ヘレム、水を。――ありがとう。飲めるか、楓子」
シンはベッドに腰かけて、あたしの背中に片腕を差し入れ、起こした。頭を揺すられるとグラグラして気持ち悪い。
ひんやりとしたコップのふちが、唇に触れた。
「水を飲め。飲まないとアルコールが外に出ない」
「……いらない。ベッドで吐いちゃう……」
「そんなことはいい」
まぶたが落ちていく。それなのに頭がグルグルして、気持ち悪くて眠れない。
その時ふいに、大きなてのひらで後頭部をつかまれ、唇に冷たくてやわらかいものが押しあてられた。シンの唇だとすぐにわかった。毎日のように口づけされているから、感触に慣らされている。そこから清涼感がそそぎこまれた。――お水。あたしはコクンと喉を動かした。熱くなった喉に冷たい水が流れていく。気持ちいい。
唇が離され、もう一度、口づけられる。水を飲む。その行為が繰りかえされた。ひんやりとしたシンの唇が気持ちいい。がっしりした腕に抱かれて、この上ない安堵感が全身を包む。また、口づけられる。いつもみたいに荒々しいキスじゃない。いたわりに満ちた、優しい口づけだ。
シン。
あたしは心の中で呼んだ。
腕をのばして、シンの背中にまわした。広くて、たくましい背中。無限の安心感を与えてくれる。肩甲骨をなでるようにすべらせると、シンの肩がびくりと動いた。