23

 慌てるように、唇が離れる。
 あたしをそっと枕に戻し、シンは体を離した。

「シン」
「――ああ」
「もっと、飲みたい」
「いや、もう駄目だ。これ以上はまずい」

 くすくすと、ヘレムさんの笑い声が転がった。

「わたくし、席を外しましょうか?」
「いや、ここにいてくれ。――夕食がまだだったな」

 シンの気配が離れていく。
 『ここにいてくれ』?
 何それ。
 融解(ゆうかい)したはずの嫉妬心が凝り固まってくる。
 続いて、自虐心がそれを塗りつぶした。
 あたしはやっぱり、バカだ。
 シンになにも与えられないくせに。
 優しくしてもらってばかりのくせに。

「とても大切にしておいでなのね」

 ヘレムさんの声が耳にすべりこんできた。女性的な媚びがとろりとふくまれている。

「あの方に、妬いてしまいますわ」
「このような宿は、危険だな。油断すると雰囲気に流されそうになる」
「あら、流されても良いのですよ。そのためにわたしがいるのですから」
「……すまない。ただ泊まるだけでは、商売にならないな」
「ふふ。婆(ばば)も申していたとおり、お花代はきちんといただきますから。そういうことではなく、貴方様のような素敵なお方がわたくしのお部屋にいらしたのに、ご奉仕させていただけないことが悲しいのですわ」

 シンは言葉につまっているようだ。あたしにはあんなにグイグイくるくせに、女慣れしていないなんて、おかしいと思う。
 ああでもそろそろ、本当に何も考えられなくなってきた。体がどこまでもベッドの中に沈みこんでいくようだ。

「ですから、ねぇ……唇だけでも、ほんのひととき、わたくしにくださいませんか……?」

 ささやくような、ヘレムさんの声がする。
 あたしはシン、とうわごとのようにつぶやいた。
 そのまま意識は墜落していった。

 目を開けると、暗闇だった。
 あたしは何度か、まばたきした。部屋は暖かく、ストーブがたかれているはずだ。もう少しすれば目が慣れて辺りが見回せるだろう。
 体を包むように、シンの両腕がからんでいる。小さな寝息が聞こえる。今何時くらいなんだろう、と思いかけて気づいた。この世界には時計というものがない。

 喉が渇いた。そろそろ目が慣れてきたので、シンの腕をどかして起き上がる。すると頭がガンガン痛んで眩暈がした。完全に二日酔いだ。体に残らないお酒という触れこみはなんだったんだろう。

 ふらつきながらベッドを降りる。ついたての向こうのテーブルには、水差しが用意されていた。とても喉が渇いていたので、いっきに飲んだ。落ち着くと同時に昨日のことがよみがえってきて、恥ずかしくなる。

 人前で酔いつぶれたのは初めてだ。しかも、ヘレムさんの前で何度もキスをして――。
 そういえばヘレムさんは室内にいない。別室に移ったんだろうか。
 あたしが眠ったあと、シンとヘレナさんはどんな会話をしたんだろう。ヘレナさんがシンに言い寄っていたところまでは覚えている。

 シンは……キスを、したんだろうか。
 いつもあたしにするみたいに、ヘレムさんにも。
 気づけばぎゅっとシーツを握りしめていた。
 ガンガンする頭で、これ以上落ちこむことを考えたくなかった。

「……落ちこむ……?」

 あたしはつぶやいた。
 昨日から変だ。
 やきもちをやいたり、ひとりで落ちこんだり。
 薄い闇が部屋を漂っている。あたしは気分を変えようと、物音をたてないように廊下に出た。

 宿は吹き抜けの3階立てになっている。ここは2階だ。朱塗りの欄干に頬杖をついて、何となしに下を眺めていた。ぽつぽつと灯されたランプのおかげで、ぼんやりと明るい。少し寒かったので、毛皮のショールを巻き直した。
 下を眺めていると突然隣の扉が乱暴に開いた。

「ふざけんな! オレを殺す気か!」

 出てきたのは中年の男だ。上衣(ディール)がはだけ、お腹にはでっぷり脂が乗っている。あたしがびっくりして立ちすくんでいると、階下から宿泊係だろうか、若い男が駆けつけてきた。

「ど、どうされましたかお客さま」
「どうしたじゃねえ! このガキ、オレを花瓶で殴ろうとしやがった!」

 宿泊係がサッと青ざめた。開け放たれた扉の中には、少女が小さな背中を丸めて震えている。

「申し訳ありません、あの娘は今宵が初穂(はつほ)でして――。すぐに別のお部屋を用意いたしますので、このたびは何卒ご容赦を……!」
「初穂だってことは知ってんだよ! ガタガタ震えて泣いてりゃ興が乗るところを、殴りつけようとするなんざどういう教育してんだここはっ」

 男はツバをいっぱい飛ばして、怒鳴りつけている。宿泊係は蒼白になって平身低頭だ。あたしはあっけにとられて固まっていた。するとそこへ、部屋からシンが出てきてあたしに駆け寄ってきた。