あたしは狂ったように暴れた。手足をむちゃくちゃに動かした。シンは両の手首をつかみ、あたしの顔の横に抑えこんだ。
体の自由がきかなくなり、恐怖がさらに大きなうねりとなって、飲みこんでくる。
あたしはガクガク揺れる視界をどうにもできず、あふれる涙を流し続けた。
「駄目、駄目、いやだ、いや、離してお願い、たすけて……!!」
「楓子。楓子、大丈夫だ」
シンが必死に声をかける。どんなにあたしが暴れても、鍛えぬかれた体躯の前ではなんの抵抗にもならない。でもその事実がさらにあたしを混乱に陥れた。
「ああ、ユーマが、ユーマが……! どうして、助けて、おばあちゃん、リオウ……!」
「楓子……!」
シンの目が、これ以上ないほどの苦痛に揺れている。
「大丈夫だ楓子、ここには誰もいない、ユーマもリオウも、他のやつらも誰もいない。誰もおまえを傷つけない。大丈夫だ……!」
「あああああ」
渦にのみこまれてしまう。
あたしは恐慌に駆られた。
シンが上から押さえつけるのをやめて、態勢を横向きにして、あたしを抱きすくめた。
「シン、助けて、お願い、逃げて、あたしを連れて、遠くへ逃げて、シン」
「わかってる。わかってる楓子。オレが連れていってやる。だからもう泣くな。何も考えるな」
シンの大きなてのひらがあたしの後頭部をつかみ、上むかせた。
鋼色の髪。青い瞳。燃えるような傷を負った、ゆるぎない瞳。
「奴らのことは考えるな。オレだけを見ろ。オレは『鋼の王』だ。オレのすべてはおまえのものだ。絶対に奴らに渡さない。もう二度と、あのようなことはさせない」
喉がひきつった。
ヒクヒクと震えた。
シン、と名前を呼んだはずなのに、声にならなかった。出てきたのは別の名前だった。
記憶にない、知らない人の名前。
「――アスカ」
シンの目が、愕然と見開かれた。
あたしは茫然と、いった。
「アスカ、が。アスカが、来る」
「楓子、やめろ。いいんだ。思い出さなくていい」
シンが必死の形相で、何度もそう言い聞かせた。
あたしはそれに、ちゃんと従わなければと思った。
従わなければ、恐ろしい波に囚われ続けてしまうだろう。
だからその名を箱に入れて鍵をかけ、心の底に落としこんだ。
「くそっ――楓子。どうしておまえがこんな」
シンはきつく、あたしの頬を自分の胸に押しつけた。自分の感情を押し殺すように、そのまま固く抱きこんだ。
今夜の月は、青かっただろうか。
シンの熱い皮膚と力強い腕を感じながら、あたしは焼け野原のような心で、そう思った。
*
「おはようございます。入らせていただいてもよろしいですか?」
さらりとした声が廊下から入りこんだ。あたしはぼんやりと、耳だけで聞いた。
「シン様、フウコ様。ヘレムでございます。朝餉をお持ちしました」
「ああ――少し待ってくれ」
シンの胸が振動した。あたしにからめた腕をほどき、そっとふとんを掛けなおす。あたしはぼんやりとして、まだ目を開けられない。体が重くて、指先すら動かせない。
「ありがとう、ヘレム。これはオレが運ぼう。それと、楓子が少し体調を崩している。もう少しここにいていいだろうか」
「ええ、もちろんですわ。フウコ様、大丈夫ですの?」
「ああ……昨夜は酒に酔ったうえ、あの客相手にがんばったから、疲れが出たようだ」
「ふふ。あのお客さまは昨夜、ずいぶんと楽しまれましたよ。満足なご様子で、明け方帰られました」
ヘレムさんは涼やかに笑った。
「フウコ様に薬湯をお持ちいたします。少しお待ちください」
「ああ、すまない」
扉が閉まる音がした。しばらくして、シンが近づいてきた。
「楓子。ふとん1枚では冷える。服を着てくれ」
「……ん」
あたしはゆっくりと、寝返りをうった。シンがあたしの服を集めて、隣に置いた。
「その……ひとりで着替えられるか? それとも、ヘレムに手伝ってもらうか?」
「ひとりで、だいじょうぶ……」
のろのろと起き上がると、布団がめくれて冷気が肌を刺した。思わず縮こまるあたしの肩を、シンが慌てて抱いた。
「だから言っただろう。ほら、着ろ」
シンが中綿の下着をあたしの頭にかぶせる。重たい腕と足を何とか動かしながら、あたしは服を着た。上衣(ディール)を羽織ると、シンがボタンをとめて、帯をしめてくれた。
……ちょっとこれは、過保護すぎないだろうか。
ぼんやりとした頭で、そう思う。
そういえば昨夜の記憶があまりない。
お酒を呑んで、あの男性客とやり合って――それから。
「楓子」
シンがあたしの背を支えながら、そっとベッドに横たえてくれた。
「もう少し寝ろ。ヘレムが薬湯を持ってきてくれる」
青い双眸に見下ろされて――あたしは一度に、思い出した。
指先が震えだしたあたしに気づき、シンが心配そうに眉を寄せる。
「楓子、今日もこの宿で休ませてもらおう。ゆっくり寝てくれ」
「……うん」
「薬湯をお持ちいたしました」
ヘレムさんの声に、シンが扉を開けに行く。介抱の申し出をシンは断って、扉を閉めた。あたしはベッドに寝転んでいて、ヘレムさんの姿は映らなかった。