28

 薬湯をのみ、あたしは1日中生ぬるい意識の中を漂っていた。時折シンが隣に来ててのひらでひたいに触れ、冷たく濡らした布を押しあててくれた。
 ひんやりして気持ちがいい。
 シンがおかゆを持ってきてくれたけど、全然食べられなかった。
 やがて夜が来て、月が昇り、シンは2日目の宿泊を願い出ていた。

 遠くから、遠吠えが聞こえる。
 あたしは手でシーツを辿り、ぬくもりを探した。

「シン」

 やがて大きな体に抱きしめられる。低い声で、シンがいった。

「どうした、楓子」
「狼の声が聞こえる。狼がいる」
「遠くにいる。大丈夫だ」

 ついたての向こうで、ランプがほのかに揺れている。シンの腕に包みこまれて、不安感が取り除かれてゆくのを感じる。彼の上衣に頬をすりよせると、草の匂いがした。シンの腕に、わずかに力がこもる。

「ごめんなさいシン」

 あたしのつぶやきが、夜にとけた。
 シンが身じろぎして、顔を覗きこむ。

「何を謝ることがある」
「昨日、あんなふうに暴れちゃって……。シンのことをたくさん、叩いたから」
「気にしなくていい。オレが悪かった」
「あと、あの……途中で、拒否しちゃって、ごめんね。ああいうの、つらいって聞くから」
「…………。いや、問題ない」

 複雑な沈黙があった。やっぱりちょっとつらかったらしい。

「おまえはなにも気にするな。すべてオレが悪い。……思い出させるようなことを、した」

 あたしは沈黙した。
 本当は、すべてを思い出したわけじゃない。

 あの夜、老婆から差し出された薬を飲んだ。それから意識がもうろうとして、身体が熱くなって、……ユーマが来た。
 ユーマだけじゃない。
 あのあと、月が青い夜、あたしのゲルに何人かの男たちが渡ってきた。
 あたしに拒否権はなかった。
 みんな、月のように青い目をしていた。それだけが熱を孕んで光り、顔立ちは見えない。
 それだけを、思い出した。
 そこにシンはいない。シンのことは、なにも思い出せない。

「あたしはもともと、こちらの世界の人間なんだね。楓子も本名じゃないの?」
「……ああ。蒼月の巫女の力を持つものは、奴らの故郷の文字で名がつけられるらしい。だからこれは、お前の本当の名だ」
「そう……。じゃあ、『那岐(なぎ)』は?」
「那岐のことも思い出したのか?」

 シンが驚いたように目をみはった。あたしは首をふる。

「名前だけ。顔も思い出せない」
「そうか……。那岐はおまえの弟だ。あいつに会う必要がある。だからこうして、旅をしている」

 那岐。
 その名前を唇にのせる。
 どこか懐かしいような、切ないような、温かみが広がった。

「じゃあもうあたしは、日本には帰れないんだね。もともと日本の人間じゃなかったんだから」

 シンの表情に緊張が走った。

「……楓子。そのことなんだが」

 歯切れ悪く、口ごもる。あたしは眉をひそめた。

「何?」
「……いや。なんでもない。たいしたことじゃないんだ」
「でも、シン――、んっ」

 シンの唇が、あたしの口をふさいだ。ねっとりと、舌で口腔を愛撫され、頭が真っ白になる。
 ゆっくり唇を離し、シンはおでことおでこをくっつけた。

「もう、寝ろ。まだ少し熱い」

 ……ごまかされた。
 でも、これ以上の現実を受け入れる容量がないのは確かだ。
 あたしは目を閉じた。まぶたがまだ少しむくんでいる。
 眠りが訪れるのは、早かった。