薬湯をのみ、あたしは1日中生ぬるい意識の中を漂っていた。時折シンが隣に来ててのひらでひたいに触れ、冷たく濡らした布を押しあててくれた。
ひんやりして気持ちがいい。
シンがおかゆを持ってきてくれたけど、全然食べられなかった。
やがて夜が来て、月が昇り、シンは2日目の宿泊を願い出ていた。
*
遠くから、遠吠えが聞こえる。
あたしは手でシーツを辿り、ぬくもりを探した。
「シン」
やがて大きな体に抱きしめられる。低い声で、シンがいった。
「どうした、楓子」
「狼の声が聞こえる。狼がいる」
「遠くにいる。大丈夫だ」
ついたての向こうで、ランプがほのかに揺れている。シンの腕に包みこまれて、不安感が取り除かれてゆくのを感じる。彼の上衣に頬をすりよせると、草の匂いがした。シンの腕に、わずかに力がこもる。
「ごめんなさいシン」
あたしのつぶやきが、夜にとけた。
シンが身じろぎして、顔を覗きこむ。
「何を謝ることがある」
「昨日、あんなふうに暴れちゃって……。シンのことをたくさん、叩いたから」
「気にしなくていい。オレが悪かった」
「あと、あの……途中で、拒否しちゃって、ごめんね。ああいうの、つらいって聞くから」
「…………。いや、問題ない」
複雑な沈黙があった。やっぱりちょっとつらかったらしい。
「おまえはなにも気にするな。すべてオレが悪い。……思い出させるようなことを、した」
あたしは沈黙した。
本当は、すべてを思い出したわけじゃない。
あの夜、老婆から差し出された薬を飲んだ。それから意識がもうろうとして、身体が熱くなって、……ユーマが来た。
ユーマだけじゃない。
あのあと、月が青い夜、あたしのゲルに何人かの男たちが渡ってきた。
あたしに拒否権はなかった。
みんな、月のように青い目をしていた。それだけが熱を孕んで光り、顔立ちは見えない。
それだけを、思い出した。
そこにシンはいない。シンのことは、なにも思い出せない。
「あたしはもともと、こちらの世界の人間なんだね。楓子も本名じゃないの?」
「……ああ。蒼月の巫女の力を持つものは、奴らの故郷の文字で名がつけられるらしい。だからこれは、お前の本当の名だ」
「そう……。じゃあ、『那岐(なぎ)』は?」
「那岐のことも思い出したのか?」
シンが驚いたように目をみはった。あたしは首をふる。
「名前だけ。顔も思い出せない」
「そうか……。那岐はおまえの弟だ。あいつに会う必要がある。だからこうして、旅をしている」
那岐。
その名前を唇にのせる。
どこか懐かしいような、切ないような、温かみが広がった。
「じゃあもうあたしは、日本には帰れないんだね。もともと日本の人間じゃなかったんだから」
シンの表情に緊張が走った。
「……楓子。そのことなんだが」
歯切れ悪く、口ごもる。あたしは眉をひそめた。
「何?」
「……いや。なんでもない。たいしたことじゃないんだ」
「でも、シン――、んっ」
シンの唇が、あたしの口をふさいだ。ねっとりと、舌で口腔を愛撫され、頭が真っ白になる。
ゆっくり唇を離し、シンはおでことおでこをくっつけた。
「もう、寝ろ。まだ少し熱い」
……ごまかされた。
でも、これ以上の現実を受け入れる容量がないのは確かだ。
あたしは目を閉じた。まぶたがまだ少しむくんでいる。
眠りが訪れるのは、早かった。