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「それで、『狼獄(ろうごく)の谷』のについてなんだが」

 水の筒をあおり、スオウが切り出した。

「楓子に説明するとだな、岩場が深く落ちこんだ短い谷だ。横穴がボコボコあいてはいるが、基本的に一本道。楓子の足だとそうだな、グオズ5つ食べる時間があれば奥までいける。その谷に、たくさんの狼が住みついている。ざっと100はいるだろうな。横穴に隠れて、うじゃうじゃいる。奴らは谷の外で狩りをして、獲物を谷に持ちこみ皆で分けあって食っている」

 説明を聞くかぎり、全長1~2キロの深い谷、というところだろうか。そこに、狼が100匹。横穴に光る無数の眼光を想像して、あたしはぞっとした。スオウの青い目が、意味ありげに細められる。

「なんでそんな数の狼がいるかってのは――理由はもちろんあるんだが、聞かない方がいいだろうな。記憶を失った恩恵だ。オレにとっちゃ羨ましいぜ」
「スオウ」

 シンが咎めるように鋭く割りこんだ。結局、狼の数に関しては謎のままだった。

「この谷の最奥に、那岐は捕えられている。捕えた奴らには心当たりがある。ありすぎるほどにな。奴らはご丁寧にも、頑強な鉄づくりの牢屋をこしらえた。二重の檻だ。狼の爪は届かないし、術も使えない」

 那岐。名前だけを憶えている、あたしの弟。
 顔すら浮かばないから、親愛の情といったものは浮かびようがない。でもずっと親兄弟のいなかったわたしに弟がいる。不思議だった。それに、驚くことに少しだけ――嬉しかった。

「まるで他人事のように言うが、スオウ。あの谷に無傷で入りこめるのはおまえたちの一族だけだろう。だったらおまえの差し金なのではないのか」
「残念ながら、オレたちも一枚岩じゃないんでね。おかげで谷の狼たちは別の一党に手手なずけられて、いまやオレたちの敵だ。『蒼月の巫女』を失ってから、分断が深くなった。オレも苦労してんだぜ。ああ楓子、言い忘れてたな。オレは『月狼族(げつろうぞく)』の長(おさ)をしている。おまえが前にいた部族だ」

 ――『月狼族』。
 あたしは喉を詰まらせた。
 その名を、知っているような気がする。

「ん、なんだ? なんか思い出したのか?」

 スオウがこちらに身を乗り出して顔を近づけた。シンがぐっと彼の胸を押しやる。

「では那岐を攫ったのは、一族内の別の一党ということか」
「そういうことだ。党首(とうしゅ)張ってんのは、おまえにとっちゃ不快きわまりない名前だと思うが――アスカだ」

 シンがきつく眉を寄せた。知り合いのようだが、あたしには聞き覚えがなかった。

「楓子に説明するとだな、シン以上に話が通じなくてカッとしやすい面倒な男なんだよ。ただ幻術がユーマより使えて、カリスマ性がある。若い奴らが憧れちまうんだ。
これが中心になって次代の巫女を探すといい、狼を使って各地を荒らし始めた。那岐の誘拐もその一環だ。あいつらには正当な理由があるんだろうが、餓鬼の論理は独りよがりで矛盾だらけだ。しかしやたら勢いだけはある。そんなふうでほとほと困り果てたオレらに転がりこんできたのが、楓子。おまえに関する情報だ」

 スオウの双眸が深く、あたしを見つめる。でもそれは一瞬のことで、すぐにくつろいだ余裕のある態度が戻った。

「お婆がな、亡くなったんだ。ずいぶん長生きだったから寿命だろう。ああ、お婆っていうのはまあ、生き字引……影の長老みたいなもんだな」
「お婆が――そうか」

 シンは沈痛に眉を寄せた。一拍おいて、スオウは続ける。

「そのお婆が死の床で、楓子の気配を感じとった。『楓子はあの世界にいる』。つまり、こことは別の座標軸にある世界だな。で、オレらん中で一番術力の強いユーマが、お婆の決死の力を借りて、楓子の世界へ飛んだんだ。ユーマは幻術を使って仮の身分を得て、楓子と接触し連れ帰るはずだった」

 それが『深山くん』だったのか。

「『蒼月の巫女』がふたたび見つかったのはいいんだが、アスカの一党に先んじられると厄介だ。極秘裏にかくまおうと思ったんだが、ユーマがもたもたしてるうちに、シンに先んじられちまった。そのあと、リオウもつけて楓子を迎えに行かせたんだが――まあ、あとは知ってのとおりさ」
「人選を間違えたな。ユーマなど、最悪だ。あいつは楓子に執着しすぎている」
「おまえが言うか」

 スオウが笑った。

「まあオレにとっちゃ可愛い弟分なわけだよ。そんなあいつらが顔面蒼白で戻ってきたもんだから、ここはオレが出るしかないと思ってこうしてやってきたんだ。ぶっちゃけると最初シンが弓を抜いた時、肝が冷えたんだぜ」
「嘘をつけ。楓子、こいつはチャラチャラしているが、危険な男だ。あまり近づくな。オレの方が腕はたつが、それでも一族内で最強の戦士だ」

 近づくなと言われても、今でもじゅうぶん近い気がする。
 もしかしたらシにンは、スオウが今こちらを襲ってこないという確信があるのかもしれない。
 スオウはニヤニヤ笑いながら、シンの背中を叩いた。こうして見ると、スオウの方がシンより背が高く、体格もいい。

「嬉しいねぇ、『鋼の王』に褒めてもらえるなんて。ま、なんも出ないけど」
「おまえの話はわかった。ここへ来てすぐに、狼の群れに襲われたんだが、それはおまえの仕業か?」
「んなことするわけねーだろ。アスカだ、アスカ」
「だがそれが真実だと保証するものは何もない。この話自体が罠だということもありうる」
「お、珍しく頭を回してるな。筋肉のが先に動くタイプだったのに成長したかな。あれから5年経つもんなぁ」

 筋肉の方が先に……。その説にはすごく納得できる。

「信じる信じないはおまえに任せるさ。ただ、オレの方にはおまえたちと協力する用意があるということだ」
「協力だと?」
「狼なんざシンの敵じゃねぇだろうが、楓子を守りながら100匹を相手するっつーのは難しいんじゃねえのか? アスカの幻術もあるんだぞ」

 シンは沈黙した。