34

 夜闇にまぎれて、谷へ入りこんだ。
 シンもスオウも、狼たちも、足音ひとつたてない。衣擦れの音もない。でもあたしはそうはいかなくて、そっと動いているつもりでも、雪をぎゅうと踏み鳴らしてしまうし、上衣(ディール)もこすれて音をたてる。

 ……これ、あたしのせいでバレてしまうんじゃないだろうか。
 『満月だから見える』とスオウが言っていたけど、正直ぜんぜん見えない。2人の影がかろうじて判別できる程度だ。シンの腕に捕まっているから歩けるけど、1人にされたらさっぱり動けないだろう。

 それでもなんとか進んで、けっこう歩いたなと思った時、スオウが手を上げた。シンがうなずくと、スオウは3匹の狼とともに駆け出して、すぐに闇にまぎれた。
 シンはあたしを抱えこみながら、大きな岩に背をつけて息を殺している。
 緊迫感が張りつめる――3秒後。

「侵入者だ!」
「族長だ、捕まえろっ」

 若い男たちの怒号が響き渡った。スオウが敵の目をひきつけている。暗闇から無数の目が浮かび上がった。全然気がつかなかったが、あちこちに横穴が口をあけていて、狼がこちらの様子をうかがっていたのだ。彼らは男たちの怒号に興奮するように唸り声を上げ、横穴から躍り出た。こちらに気づく様子はなく、スオウめがけてまっすぐに疾駆する。
 最後の狼が横穴から出たのち、シンあたしの手を引いて走り出した。

 暗闇の中で、篝火(かがりび)が踊っている。
 炎の光が届く直前の岩に、シンとあたしは身をひそめた。夢中で駆けたから、息があがっている。でもシンは何一つ乱すことなく、篝火の方向を見据えた。

「あそこに檻がある。その中に那岐とユルハが閉じこめられている」

 シンはささやき声でいう。

「見張りは狼が5、月狼族が3。オレが一人で出る。いいか、ここから絶対に動くな」
「そんなにいるのに、大丈夫なの」

 シンの腕をにぎって言うと、彼は不敵に笑った。

「簡単だ」

 確かに、あっというまだった。
 立て続けに打ちこんだ3本の矢で、3匹の狼が倒れた。残りの狼と、3人の男は、疾駆する刀の餌食となり倒れ伏した。赤い篝火に血がテラテラと光り、息をのんだ。

「シン? なぜおまえがここに――」

 牢屋から青年の声が響く。あたしはとっさに岩から前に出た。
 2重の鉄柵の中で、その青年は愕然と、あたしを見た。あたしも彼から目を離せなかった。
 少しクセのある黒髪が、篝火に照らされる。土に汚れた頬の色は日本人のそれで、瞳も黒い。長身だが、シンやスオウとは比べるとやや細身で、中性的な容姿だった。スラリとした体を紺青の上衣(ディール)に包んでいる。その後ろには若い女性――ユルハさんが目を見開いてあたしを見ている。
 彼が、あたしの、弟――。

「姉さん……!」

 がしゃん、と鉄柵を握り、那岐が声をあげた。なぎ、とあたしも小さく呼んでいた。舌に乗せると郷愁が生まれ、胸がしめつけられた。
 だが、那岐は必死の形相で首を振った。

「なぜ来た! 早く逃げてくれ、今宵はいけない……!」

  シンが倒れている見張りから鍵を奪い、牢を開いた。まずユルハさんが出てくる。薄桃色の上衣(ディール)を着た、可愛らしい女性だ。あちこち傷だらけで憔悴しきっている。
 彼女に手を貸しながら、シンは眉をひそめた。

「何をいっている。いいから早く出ろ」
「シン、よく聞け」

 那岐は牢から出ながら、シンの腕をつかんだ。

「天の輪廻(りんね)が乱れている。間もなく月は青に還るだろう。今宵は満月だ、『狼獄谷(こんなところ)』に姉さんを連れてきてはいけない」

 シンが息をのんだ。
 那岐はあたしに視線を向けた。切羽詰まっていた両目が、ふっとやわらぎ、長い指があたしの頬をなでた。

「ああ、姉さん。心配していたんだ。シンがオレの庵(いおり)から『あなたを連れて』出ていってから、どうしているかと思って。会えてよかった」
「……那岐……? 君があたしの、弟なの……?」

 どうしてだろう、夢の中にいるみたいに、フワフワする。
 信じられない。あたしに、弟が、本当にいた。

「ごめん、姉さん。あの時オレは、あなたの記憶がかき回されることはわかっていた。でも――そうせざるをえなかった。久しぶりに会った姉さんはあまりにも傷つきすぎていて、このままでは壊れた心はもう戻らないと思ったんだ」

 那岐の言葉の意味は、半分もわからない。
 でも彼の声があたしに触れるたびに、心がゆれて、あたたかいさざ波が打ち寄せた。

「……那岐」

 意識とは無関係に、涙が零れた。那岐は切なく微笑んで、わたしの涙を指先ですくいとった。
 唐突に、シンがあたしの腕をぐいっと引っ張る。

「挨拶はあとだ、早く逃げるぞ。走れるか、ユルハ」
「は、はい」

 ユルハさんが頷く。あらためて見ると、彼女も青い目をしていた。『月狼族』なのだろう。
 那岐は丸越しだったので、シンから弓と矢筒を借りていた。
 シンが口を開く。

「アスカはどこにいる?」
「――わからない」

 緊張をにじませて、那岐がいった。