「ねえ、どうして月のものがわたしにだけこないんだと思う?」
「ええ?」
那岐が困ったように、首を傾げた。
夜。零れおちそうな星々が、一族の天幕群(クラン)を包んでいる。
「そもそもの前提として、聞く人を間違ってるよ。オレ男だから。相談するならユルハとかの女の子がいいと思うよ。でもまあ、あえていうなら――まだもう少し成長が足りない、ということじゃないかな」
「それって、わたしの胸が小さいことと関係あると思う?」
「……。別に小さいと思わないけど」
「い、今見たでしょ」
「いつも寝相ではだけさせてるくせに、今更恥ずかしがられてもなぁ」
1つ年下の弟は、もう背丈でわたしを抜いている。細身だけど、こうして上衣(ディール)の襟もとをくつろげていると、ほどよく筋肉がついてきているのがわかった。弟だけど、顔立ちはあまり似ていない。どちらかというと大きいのわたしの目に対して、那岐は切れ長で涼しげだ。髪もクセっ毛でやわらかい。
「ああ、そういう相談にぴったりの人がいるじゃないか。お婆に聞きなよ」
「おばあちゃんかぁ。うーん、聞いてみる」
女の人に相談した方がいいというのは分かっている。でもこういう話はなにかと自尊心が傷つくものだ。
おばあちゃんは早々と寝てしまっていたので、次の日の朝聞いてみた。
「あー、そのことさねぇ」
鶏に餌をやりながら、おばあちゃんは腰をトントンした。年齢を聞いても「67までは数えてたんだけどねぇ」といっているご長寿だ。わたしと那岐の唯一の肉親で、わたしたちはおばあちゃんに育てられた。リオウとスオウのひいおばあちゃんでもある。他にも一族内に孫やらひ孫やらがいっぱいいる。その辺がちょっとややこしい。
「楓子はあとひと月で17になるんだったかね」
「うん、そう。もうみんな、13とか14できてるのに、わたしだけこないの。おばあちゃん、もしかしてわたし、女じゃないのかな。男なのかな」
「そんなわけなかろうが」
喉の奥で笑って、おばあちゃんは曲がった腰をそらした。最近腰が痛むらしい。今夜揉んであげよう。
「それじゃあまあ……ひとつだけ、教えておこうかね」
小柄なおばあちゃんは、わたしより背が低い。たくさんのシワに包まれた青い目が、わたしを見た。
「楓子、おまえは子を孕むことができない。だから月ものがこないんだ」
「……え?」
おばあちゃんのいうことを、すぐには理解できなかった。
やがてじわりと、耳の奥に、嫌なぬるさで言葉が広がった。
子が――できない?
「それって赤ちゃんを産めないってこと?」
「ああ、そうだ。おまえには必要ないからね」
「なんで? だってみんな産んでるよ。サクヤさんもヒサメさんもヨリさんも。普通はそうじゃないの?」
「普通がどうかは知らん。けど楓子、おまえに子は必要ないんじゃよ。だから月ものがこなくても、なにも困らなん。安心せい」
「困らん……ほんとに困らんの? 大丈夫? わたし、このまんまでも大丈夫なの?」
おばあちゃんはしょぼしょぼした目を細めて、笑みを刻んだ。
「ああ、大丈夫じゃ。おまえのそばにはユーマやリオウがいるだろう。だから何も心配することはない。大丈夫じゃ」
おばあちゃんは腰をトントンしながら、ゲルへ戻っていった。そのあとを、うちで飼っている狼が4匹、トコトコとついていく。
赤ちゃんが産めないということがどういうこのなのか、正直、よくわからない。
でもみんなとちがうということの不安感が胸にこびりついて離れなかった。
*
ヤギのお乳をしぼるために、桶を持って歩いていると、近くのゲルから叫び声が聞こえた。
びっくりして立ち止まると、そのゲルから何人かの男がでてきた。真ん中でわめいている若い男を、4人で取り押さえている。その中にはスオウの姿もあった。
またか――。
わたしは眉を寄せて、彼らを見つめた。あのわめいている人はイブキさんだ。数日前から『危ない』と言われていたけれど、駄目だったようだ。
「『獣化』したのはついさっきらしい」
気づいたらユーマがとなりにいた。狩りに出かける途中だったのか、狼を2匹従え、弓矢を負っている。
「イブキさん、婚儀を挙げたばかりだったのにな」
ユーマが沈痛につぶやいた。
ゲルからユリさんがもつれながら出てきた。イブキさんの名前を呼びながら、その場で泣き崩れる。その背中をトウリがさすっていた。見ていられなくて、目をそらした。
この一族は、純粋な人間ではない。
八百万(やおよろず)の神の国、と呼ばれるはるか東方の島国に1匹の狼がいた。その狼は万年生き、やがて神となり、人の姿となり、大神(オオカミ)と呼ばれるようになった。その子孫が『月狼族』であるという。
月狼の一族はヒトより高い身体能力を持つ。
ヒトより走り、跳び、力も強い。よく見え、よく聴いた。寿命も長かった。けれどそれは獣としての特性であり、時に獣性は人の性(さが)を喰らうことがあった。
そうなると理性が飛ぶ。イブキさんのように咆哮をあげ、ところかまわず暴れまわり、仲間さえも喰いちぎる。
「イブキさん……これからどうなるのかな」
「ああなってはもう、人には戻らないだろう。『谷』に送るしかない」
『狼獄の谷』。
そこには獣性に吞みこまれ、姿かたちも狼になり替わった『元人間』が、幾匹も棲んでいるという。
「オレもいつか、ああなるかもしれない」
ぽつりと、ユーマがいった。
いつも冷静なユーマらしくないセリフに、わたしは首をふる。
「そんなことないよ。ユーマは絶対大丈夫だよ」
「『獣化』のきっかけがわからない以上、絶対はない。でも楓子はちがう。あんなふうにならない。楓子は『巫女』だからな」
「それは――」
わたしは言葉につまった。
ユーマは微笑を浮かべる。
「罪悪感や疎外感を持たなくてもいい。オレは良かったと思ってる」
「ユーマ……」
「那岐はちがったが――楓子はオレたちの目を、青だといった。それは巫女の証だと」
『蒼月の巫女』。
わたしと那岐が物心ついた時、その名を教えられた。ずっと自分と那岐だけどうして名前の表記がちがうんだろうとずっと疑問に思っていたから、まずそれが晴れた。
でも、いきなり巫女といわれても全然ピンとこなかった。大人たちははわたしと那岐を、他の子と同じように育ててくれたし、子どもたちとは一緒に駆けずり回って遊んでいた。『月狼族』のクランがわたしの世界のすべてで、それ以外のことはよくわからない。
「蒼月の巫女が17になり、月が青く染まる時、月狼は救われる。伝承ではそうある」
「でもわたし、なにも知らないよ。救うっていっても、やり方もわからないし、おばあちゃんは何も教えてくれないし」
そこでふと、さっきの会話がよみがえった。
わたしは、子供を孕む必要がない――。
もしかしたらそれは、巫女であることと関係があるのだろうか。
「大丈夫だ、楓子」
わたしの不安を感じとったのか、ユーマがぽんと頭にてのひらを乗せた。
「べつに巫女として何もできなくても、オレたちはなんとも思わない。楓子と那岐はオレたちの家族だ。17を過ぎて、何も起こらなくても、それは今までと同じ毎日が通りすぎるだけで、変わることはひとつもない」
「うん。ありがと」
ユーマは優しい。
わたしの心はゆっくりと浮上していった。