50

 たくましい腕に抱きしめられながら、目が覚めた。
 それは、あの恐ろしい夜以来、初めて安堵感を持って迎えることのできた朝だった。
 目の前に、スオウの鎖骨がある。そこおでこをすり寄せると、スオウが身じろぎした。

「おい、やめろ。朝から勃っちまうだろうが」

 苦笑交じりに、スオウがいう。顔を上げると、青い目とかち合った。

「おはよう、スオウ」
「ああ」

 スオウがわたしの髪を撫でる。

「あっというまに朝になっちまった。おまえのおかげで一睡もできなかったぞ」
「どうして?」
「そりゃあ――いろいろと、考えさせられたんだよ」

 わたしはスオウの足に、自分のそれをからめた。

「おいおい、挑発してんのか?」
「スオウ」
「ん?」
「好き」

 スオウは一瞬、沈黙した。

「あのな。おまえ、それは」
「スオウに抱きしめられてると、安心する。すごく気持ちいい。こんなに穏やかな気持ちで目が覚めたの、あの夜以来初めて」
「楓子、いいか。聞け」

 スオウがまっすぐに、見つめてくる。
 でもわたしは聞きたくなくて、遮るようにいった。

「これからずっと毎晩、スオウと一緒にいたい」
「はあ?」
「昼間は狩りとかがあるんでしょ。それはガマンする。だから夜は一緒にいて」

 むちゃくちゃなことを、言っている。
 自覚はある。
 でも止まらない。

「こうやって、一緒に寝てほしい。ちゃんとスオウのごはん作ったり、身の回りのお世話するから」
「それ、嫁のすることだろうが」
「じゃあ嫁にして」
「ば……っ、何言ってンだ、子どものくせに」
「子どもじゃないよ。知ってるでしょ」

 わたしは必死に言いつのった。縋る、という表現がぴったりなくらいだった。
 ひとりの夜は、嫌だ。
 かといって、側使えの女性たちと一緒にいても、不安だった。ユーマでも、リオウでも駄目だ。
 だってもし、あの男が、来たら。

「楓子。アスカは鉄牢に閉じこめている」

 ビクリと肩が震えた。
 スオウの瞳に、憐れみが滲んでいる。

「鉄は幻術を阻害する。だからここには来れない。おまえには近づけない。怖がらなくても大丈夫だ」
「でも」

 喉がカラカラに乾いて、舌がひっつく。

「でも、牢から抜けだしてくるかもしれない」
「見張りをつけている。そんなことは絶対にない」

 わたしは首をふった。

「わからない。絶対なんて、どうして言い切れるの」
「おまえは傷ついて、混乱しているんだ。側にいてほしいなら、いてやる。だが毎晩は駄目だ。オレだって聖人君子じゃない。結果的におまえが傷つく」
「そんなことない。わたしはスオウが好きだから」
「だから」

 スオウがふーっと長く息をついた。

「オレを飼い殺しにするつもりか」
「え?」
「いや、なんでもない。わかった。これから夜はこっちで過ごす。おまえがひとりでも安心して眠れるようになるまで」
「ありがとう、スオウ!」

 スオウの首に抱きついた。彼のてのひらが、素肌の背中をなでる。

「アスカは『闘士』から外す。もしかしたらまた『獣化人(じゅうかびと)』が出るかもしれないが、おまえは気にするな。そうならないように、早急に『鋼の王』を探す」
「……『鋼の王』」

 何度か聞いたことのある名だ。
 『鋼の王』がいれば、『闘士』は今までどおり3人で足りると、リオウが言っていた。

「今の一族内では、もう『闘士』になれそうな能力のある男はいない。外から調達するしかない。必ず見つけ出すから、おまえはここでゆっくり傷を癒せ」
「うん、わかった」

 素直にうなずいた。
 スオウに何もかも任せるのは、心地よかった。
 自分の思考を停止できるから。

 それからひと月の間は、平穏に過ぎた。
 スオウは毎晩、ここへ来て泊まってくれた。蒼夜、自分の番の時以外は、わたしに触れなかった。一緒に夕餉をとり、寝台の隣で眠っていた。ユーマもリオウも、そのことについて何も言わなかった。

 青い月夜が4つめぐり、季節は雪期にさしかかっていた。
 ゲルの中で上衣(ディール)に綿を縫いつけているところへ、狩りに出かけていたはずのスオウが突然、やってきた。

「おかえりなさい、早かったね……、え?」

 スオウの姿を見て、目を見開いた。
 半身が、赤く染まり、泥に濡れている。

「何――これ、血? どうしたのスオウ、どこかケガを――」
「トウリを殺した」

 静かな目で、スオウがいった。
 わたしは絶句した。

 トウリ?

 冷静な声音で、スオウは続ける。

「もう1人、死んでいる。獲物を追っている最中に、トウリが『獣化』した」

 わたしはさらに、言葉を失った。
 言葉だけが脳内に渦を巻く。けれど、その意味を理解できない。

「長老(クソジジイ)どもが、おまえに余計なことを吹き込む前に、言っておくが――」

 わたしの二の腕をぐっとつかんで、スオウがいった。

「こうなったのは、巫女の責任じゃない。トウリは突然『獣化』し、組んでいたサイガを剣で刺し殺した。ユーマは混乱し、すぐに動くことができなかった。トウリはユーマをも手にかけようとした。だからオレは、奴の背中に矢を射た。トウリは死んだ。無能なのはオレだ」
「トウリ、は」

 声がかすれた。
 視界がブレて、うまく見えない。

「トウリは今、どこにいるの」
「中途半端に獣化したまま、こと切れた。他の部族の者に見つけられたら厄介だから、谷で燃やした。ユーマには、酷だったな」

 最後のひとことが、わたしを打ちのめした。
 膝から崩れ落ち、指白くなるほど敷物に爪をたてた。
 うめき声が、漏れる。

(楓子ごめん)
(泣かないで)

 やっと、昔みたいに、会えたのに。

「楓子」

 スオウが片膝をつき、わたしを抱きよせる。腕にきつく、力がこもった。彼の肩に額を押しつけ、熱く冷たくこみ上げる混沌を、生身を引き裂かれるような激痛を、奥底から吐き出すように――慟哭した。

 わたしがスオウに守られて安穏としている間に、トウリは死んだ。
 傷つけられるのが怖くて、逃げ回っている間に、トウリは死んだ。

 次の宵は蒼月だった。
 ユーマは優しかったが、憔悴しきっていた。
 トウリの名前をひとことも出さない。それが、彼の傷の深さを物語っていた。

 だからなのか、わたしを抱いたあと、ユーマは昏倒するように眠りについた。きっと朝まで目覚めないだろう。わたしはユーマの腕からそっと抜け出した。衣服を着て、手袋と帽子を身につける。今の時期、外はとても寒い。

 中央広場に篝火がたかれ、赤々と燃えていた。草原を踏みしめて、最奥のゲルへ辿りつく。崖を背に、どんよりと淀んだそこには、見張りの若者が一人立っていた。

「これは巫女様。このような場所に、どうして」
「アスカに会いに来たの」

 震える声を抑えて、いった。
 彼の青い目が、驚きに見開かれる。

「いや、しかし、族長からアスカを巫女様にけして近づけるなと厳命されております」
「それは、わたしはスオウにお願いしたことなの。大丈夫。このことはスオウも知ってるから」

 戸惑う彼に、手を差しだす。

「鍵をちょうだい。そして、朝が来るまで、中でどんな声が聞こえても、けっして見に来ないで」
「しかし」
「『蒼月の巫女』が青い月の夜に、『闘士』に会いに来ただけだよ。ただ、それだけ」

 彼は息をのんだ。恐らく、アスカの所業は一族内に知れ渡っているのだろう。そして、狩りの最中に『獣化』したという同朋のことも。
 逡巡ののち、彼は懐から鍵を取りだした。

「あの、巫女様」

 手が震えないように気をつけながら、鍵を受けとる。
 彼は深々と、頭を下げた。

「貴女に感謝します」

 息が止まった。唇をかんだ。泣いてはいけない。
 彼を通りすぎ、ゲルの幕を持ち上げる。
 広い室内に、小さな燭台がひとつ。ほとんどが闇に沈む中で、堅牢な鉄獄が鈍く光を帯びていた。
 
 アスカは奥の柵に背をもたせ、片膝を引きよせる格好で座っていた。伏せていた青い目がゆっくりと、わたしを捉える。
 投獄されても、彼の奥にある炎は消えていなかった。狂気のように燃え盛り、わたしを射抜いていた。