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狂月編

 それから3日3晩、寝込んだ。
 その間に、一族へシンのお披露目がすんだらしい。みなとても喜び、これで『月狼族』は安泰だと胸を撫で下ろしていたそうだ。
 アスカの存在は、凶行ごと、忘れ去られていた。

「ずいぶんと懐いているんだな」

 柵の中で狼をなでていると、シンが感心したようにいった。

「野生の狼がここまで人に馴れるのは珍しい。幻術とやらをかけているのか?」
「狼には……動物には、きかないの。幻術に嵌(はま)るのは人間だけだよ」

 ピンとたった耳の裏を撫でると、気持ちよさそうに目を閉じる。

「『月狼族』は狼の末裔と言われているから、ボスみたいに感じてるんじゃないかな」
「オレには懐きそうにないがな」

 狼に手を出そうとして、唸り声を上げられる。シンは苦笑した。

「もう体はいいのか?」
「うん、だいぶいいよ。傷はまだちょっと残ってるけど」

 立ち上がり、シンを見上げた。彼は20歳と聞いている。体の線は男らしく直線的で、たくましい筋肉がついている。28歳のスオウより少しだけ背は低いが、長身であることに変わりない。鋼色の髪と浅黒い肌は、この土地で見慣れないものだ。けれどどこか懐かしくて、時おり触れてみたい衝動にかられる。
 そういう時、わたしはぐっと理性で抑えるのだけど、目の前の彼はそういうことをまったく遠慮しないようだった。

「オレが世話になっていた遊牧民が、傷によく聞く薬を作るんだ。今度もらってこよう」

 長い指でわたしの髪を耳にかけながら、シンはいう。
 寝台から起き上がれるようになって2日たつが、いつもシンはわたしのとなりにいて、そこかしこに触れてくる。

「楓子に会ってから、まだ一度も戻っていない。何も連絡していないから、きっと心配しているな」
「駄目だよ、ちゃんと連絡しないと。ゲルは遠いの?」
「いや、行って帰ってくるだけなら半日かからない。けれど楓子、おまえのそばを離れるのが苦しい」

 指の背が、頬をなでる。
 切なげにかすれる低音が肌に触れ、わたしは体が熱くなった。

 彼の手は、嫌いじゃない。
 むしろ、触れられる感触は気持ちいいくらいだ。

「『鋼の王』などと呼ばれて、訳が分からないが、それでおまえの近くにいられるのなら悪くない。むしろ幸運だ」
「……シンって、どんな女の人にもそうやっていうの?」
「どういうことだ?」

 シンは訝しげに首を傾げる。

「だっていつも口説いてくるし、触ってくるし、女慣れしてそう。遊牧民のゲルでは恋人がたくさんいるんじゃない?」
「恋人? そのような女はいない。みな家族のようなものだ」

 本当だろうか。探るようにじっと見つめると、シンの耳が少し赤くなった。

「あまり、見るな。嘘はいっていない」

 人のことを熱っぽい目でじろじろ見てくるくせに、同じことをされるのは嫌みたいだ。
 わたしは口もとをゆるめた。

「シンって、おかしい。面白いね」
「そうか?」
「ねえ、さっき遊牧民のゲルを『家族のようなもの』って言ってたけど、本当の家族じゃないの?」
「ああ。オレはじいさんと6歳ころまで2人きりで暮らしていた。そのじいさんが亡くなって、フラフラしていたところを今の遊牧民に拾われたんだ。じいさんと本当に血がつながっていたのかもわからない。そういう話はしなかったからな。無口な老人だった」
「そう。ちょっとわたしと似てるね」
「おまえも家族がいないのか?」

 シンが痛ましげな目で、わたしの手をとった。わたしは首をふる。

「弟がいるの。那岐っていって、一つ下。でも、わたしが『巫女』になった日に、いなくなっちゃった。どこか遠いところに住んでるみたい。場所はわからない」
「そうか。どこかに生きているんだな。おまえが望むなら、会いに連れていってやる」

 曇りのない言葉に、わたしは思わず笑ってしまった。

「ありがとう。でも今はいいの。本当はずっと会いたかったんだけど……でも、今はもう、いいんだ」

 那岐の中のわたしはずっと、巫女になる前のわたしのままでいたい。
 今の自分を、知られたくない。
 アスカと2度の夜を過ごして、強く思うようになった。

 わたしの中で何かが確実に変わっている。
 心の底から笑うことがない。悲しむこともない。誰かに優しくされると胸が痛んだ。他人を見るとき、自分が同じ世界に存在していないのではないかと感じる時がある。それは時に、ユーマやリオウたちにも感じることだった。

「泣くのか、楓子」
「えっ、どうして? 泣かないよ」

 笑顔を繕(つくろ)うと、次の瞬間、わたしはシンに引きよせられていた。たくましい腕が、ぎゅうと腰と肩を抱く。

「シン、どうしたの、苦しいよ」
「そんな顔をしないでくれ、楓子」

 切なげにかすれる声が、耳朶をうつ。思わず身をすくませると、彼の唇がわたしの頬に触れた。

「し、しん……っ」
「楓子、おまえが好きだ。楓子」
「待っ……」
「はーいそこまでー」

 のんきな声が投げかけられて、シンの動きが止まった。慌ててその下から抜け出して、リオウの隣に行く。そこにはユーマもいて、こめかみに青筋をたてシンを睨んでいた。

「しんぼーたまらん気持ちもわからんでもないけど、ここは外だからねー。みーんな見てるからね、ある程度は控えようね、シン」

 年下に言い聞かせるように、リオウはいう。ちなみに実際はリオウの方が4歳年下である。

「駄目なのか?」
「駄目に決まってるだろう、いったいどんな環境で生きてきたんだおまえは」

 ぷちぷちと切れつつユーマが凄む。シンはきょとんとした。

「遊牧民に世話になっているんだが。そうだな、そういえばアルトゥたちは人前で口づけなどしないな。しかし我慢するとなるとかなりの忍耐が必要だ。それは苦しいから楓子、今からゲルに戻って2人きりになろう」
「もう一度最初から人生やり直せ」

 またしても雰囲気が不穏になってくる。シンとユーマはいつもぶつかってばかりだ。

「あーわかったわかった。いいから早くユーマは狩りにいきなよ。ほら、シンも。兄さんがお待ちかねだよ」
「狩りか。わかった」

 シンが狩りに参加するのはこれで3度目らしい。1度目は正確無比の弓さばきで、猪を2頭、雉(きじ)を3羽仕留めたとのことだ。スオウがとても喜んでいた。
 ちなみに、それに触発されたユーマも同じくらい捕獲して、過去最高の戦績を残したようだ。だからなのか、最近のごはんはちょっと豪華になっている。

「おまえは行かないのか、リオウ」
「オレひ弱だから」

 いつもの言い訳を口にして、リオウは2人に手を振った。