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「楓はどうしてこんなに敏感なの」
「……っあ」

 体に力が入らない。もう吐精しつくしたというのに、まだリオウは肉棒をわたしの中に埋めている。疲れ果てて眠りに落ちようとすると、ゆるりと揺さぶられ甘い刺激が送られる。
 あたりはまだ暗い。

「だめ……もう、抜いて……、おねがい」
「なのにどうしてこんなに馬鹿なんだろう」
「――っん」

 劣情をあおるようなキスを与えられる。息の継ぎ目に低くいった。

「潤んだ目でおねがいっていうなんて、自虐行為だよ」

 硝子玉(がらすだま)みたいな表情のない双眼に、ゾクリとする。淫らな口づけと、秘所の粘膜をゆるくこする振動から、ふたたび蜜が沁みだして、リオウのそれをきゅっとしめつけた。
 リオウは再び、強く突き上げた。
 青い月はまだ、沈まない。

 次の日の朝、目が覚めると、もうリオウは普段通りに戻っていた。寝台の中で明るい色の目をこちらに向けて、にこりと笑う。

「おはよう、楓。ごはん食べる?」
「…………。うん」

 とりあえず、頷いておいた。
 リオウは衣服を引きよせてすべて身につけ、寝台を降りて伸びをする。

「あー体痛い。無理はするもんじゃないなぁ。ま、すっごい気持ちよかったからいっか」

 もう返す言葉もない。
 あきらめのため息をつきつつ、わたしも服を着て寝台を降りた。……確かに、体が重い。
 リオウはベイズと、コップに入れたティーツァを卓に並べた。どうぞ、と言われて、仕方なく敷物の上に腰を下ろす。本当は食欲なんてない。
 ベイズをちぎりながら、リオウはいった。

「ちょっとオレ今日、遠出してくるから」
「どうして?」
「シンから逃げるために決まってんじゃん。昨日さ、出かける前に『戻ってきたら殴らせろ』って言われたんだよね。あんな太い腕で殴られたら、オレ再起不能になっちゃうよ」
「……そ、そう」

 複雑な気持ちでティーツァを口に含む。
 それからわたしは、ストーブの火をぼうっと見つめながら、シンのことを考えていた。

 外に出て、シンに会うのは憂鬱だったけど、いつまでもゲル内にいられないので外に出た。見回すと男の数が少ない。もうみんな狩りに出かけてしまったようだ。
 ほっとしたような、会いたかったような、複雑なため息が出る。いつものように狼の柵に入って撫でていると、背後から声がかけられた。

「巫女様、おはようございます」
「あっ、はい、おはようございます」

 慌てて振りかえり、その女性を見て、わたしは息を呑んだ。
 トウリによく似た、優しげな目もとをほころばせて、彼女は微笑む。

「ずっと、声をお掛けしたいと思っていました。でも、いつも『鋼の王』がおそばに付き従っていらっしゃいましたから、なかなかその機会がなくて」
「あ、あの、その、こちらこそ……!」

 忙(せわ)しなく立ち上がり、頭を下げる。彼女はルリさん、トウリの母親だ。線の細い、少女のような女性で、巫女になる前はよく那岐と一緒にお昼を食べさせてもらったりしていた。
 トウリの父親は何年も前に、狩りの最中に死亡している。トウリは繊細な母親をとても大切にしているようだった。
 やわらかな微笑みが、トウリのそれと重なって、胸がしめつけられる。彼女は一人きりになってしまったのだ。

「本当ならわたしの方からルリさんのところへ行かなきゃいけなかったのに、ごめんなさい」
「そんなことはいいんですよ。族長からも、何度も頭を下げられました。けれどわたしは誰のことも、恨んではいません。巫女様には感謝をお伝えに参ったのです。あの子の死をお聞きになり、自らアスカのところへ赴いたと」
「……いえ。でも、遅すぎたんです」

 うつむきながら引き絞るようにいった。ルリさんの顔が見られない。
 彼女は今でも毎日、朝から昼餉の時間まで、『狼獄の谷』に花を手向けに行くのだ。

「本当だったら、トウリが『獣化』する前に、そうするべきだったんです」
「……同じ、女として」

 ルリさんがふわりと、わたしの肩に手を置いた。あらためて顔を上げると、彼女のやつれた目が、優しく細められている。

「貴女様には、酷く、同情いたしますわ」
「――」

 瞬間、ざらりと背すじを舐め上げられるような悪寒が走った。
 ルリさんは穏やかに青い目を細めたまま、いう。

「まだ年若いというのに純潔もなく、それゆえただひとりに愛されることもなく、色を失う頃にはすでに巫女の神力もなく、孤独な醜女(しこめ)となりはてる――お可哀想に」

 三日月形の目をわたしのそれに固定したまま、そっとルリさんが離れた。釘を打たれたように動けずにいるわたしに、丁寧な一礼を送り、何事もなかったように立ち去った。
 しばらくそこで佇んでいると、また声をかけられた。思わず肩を震わせると、声の主は訝しげに眉を寄せた。

「どうしたんだ、楓子。さっきから全然動かないようだけど」
「ユーマ」

 呼んだ声は、酷くかすれた。ユーマがさらに眉を寄せ、近づく。

「顔色が悪い。ゲルに戻ったほうがいい。送るよ」
「うん」

 背を促され、自分のゲルに戻った。わたしを寝台に座らせて、何か欲しいものがあるのか聞く。首を振ると、そうか、と言ってお互い沈黙した。重たい空気が流れ、やがてユーマがいった。

「あっちに戻る。獲物を解体する仕事が残ってるんだ。何かあったらいつでも呼んでくれ」

 離れようとする手を、とっさに握った。ユーマは驚いたように振りかえる。

「ユーマ。トウリが死んだとき、近くにいたんだよね」

 彼の青い双眸が、見開かれる。やがてそれは苦しげに歪んだ。

「ああ……。トウリは狩りの最中に『獣化』した。死体となったあいつを谷に送り、燃やした」
「トウリは、痛がってた? 苦しそうだった?」
「そのような質問に、こたえる義務はない」
「でもわたしには聞く義務がある」

 声が震えないよう慎重に、わたしはいう。
 しばらくの沈黙ののち、ユーマが口を開いた。

「なにがあった?」
「なにも。ただ、聞きたいと思ったの」
「オレは言いたくない。尊重してくれ」

 吐き捨てるようにいって、ユーマは手をほどいた。

「本当なら思い出すのもつらい。それを、よりによっておまえに話すなど、拷問だ」
「わかった。無理いって、ごめん」

 わたしはうつむいた。重たい沈黙が降りる。
 それでも、さっきルリさんから発せられた言葉の方が重かった。言葉の意味そのものより、裏に隠された彼女の憎悪が、大蛇のようにギッチリとからみついている。

 でも、仕方のないことなのだ。
 身近なトウリという存在が『獣化』して、やっと気づいた。
 遅すぎた。

「……重いな」

 ぽつりと、ユーマがいった。

「背負うには、重すぎる」

 酷く孤独な響きが含まれていて、わたしは思わず顔を上げた。ユーマは目をそらし、背中を向けた。

「あまり一人になるなよ。最近一族の若者――ヒリュウを中心に、数人が離反した。アスカの取り巻きたちだ。これから増える可能性もある」

 わたしの返事を待たずに、ユーマはゲルから出ていった。彼の背中を弱々しく感じたのは、初めてのことだった。

 結局シンは、いつものように夕食後、わたしのゲルにやってきた。最初彼はぎこちなくしていたが、やがてわたしがぼうっとしているのに気づいたらしく、声をかけてきた。

「どうした、楓子。元気がないみたいだが」
「うん。大丈夫」

 卓の前に、両膝を抱えて座りこみながらストーブの火を見る。パチパチと爆ぜている。

「大丈夫に見えない」

 包むように、背後からたくましい腕が巻きついてくる。頬に唇を寄せられて、わたしは顔をそむけた。

「今日は、嫌」
「…………」

 長い沈黙の後、シンが口を開いた。

「体調が悪いのか?」
「悪くないけど、ちょっとそういう気分じゃないの。これからも、蒼月の夜以外は、男の人に触られたくない」
「その提案を、受け入れることはできる。おかしな理由がなければの話だが」
「うん。わたし、ちょっとおかしくなってきたかもしれない。……いっぱいいっぱいなの。いろんなことが、たくさんあって。ごめんね、腕、離して」
「楓子」

 捨てられた狼のような声で、シンがいう。

「離したくない。どうすればいい」

 シンの言葉が胸の中をきゅっとつかむ。
 本当は、なにもかもを忘れて、ゆるぎない彼の腕の中でただ守られるだけの存在でいたい。
 そしてそれは、わたしが望めばいくらでも与えれるのだ。

「どうすればいいんだろうね」

 こたえは、しっかりと自分で考えなくてはならない。
 シンの腕をすり抜けて立ち上がり、わたしは天井の窓を見上げた。冷えた星々は煌めいて、深い漆黒を彩っている。シンは何も言わず、わたしを見つめていた。