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 ぱちん、と弾ける音がした。

「ぎゃああああああッ」

 男の叫びが、薄闇を引き裂く。同時に、びしゃっと熱い液体と細かいカスのようなものが飛び散って、わたしの体を濡らした。

「うあ、あ、あ、おれの、うで、うでが」

 滑稽なほどに慄きながら、クウガが地面に転がる。彼の右肩から先がない。続いてまた破裂音がして、彼の首から上が弾け飛んだ。
 いとも簡単に、赤い果実が弾けるがごとくに。

「な、なにが」

 わたしの体を抱いたヒリュウの腕が、わなないた。瞬間、背後からまた破裂音がして、叫び声が耳をつんざいた。

「ぎゃああああッ」

 ヒリュウが地面に転がる。わたしの体は支える腕をなくしてがくんと落ち、天井から吊るされている手首に縄が食いこんだ。
 脇腹の激痛と、全身の鈍痛のせいで、ヒリュウを振り向くことができない。だからなにが起きているのかわからない。

 けれど、正面は見ることができた。そこにはリオウがいて、うつむきながらゆっくりと、立ち上がった。彼を戒めていたはずの縄は、足元に細かく散っている。
 背後で、ごぽごぽと何かがあふれ出る音がして、うめき声が地面を這った。

「リ、オウ――おまえ、か」

 ヒリュウが慄(おのの)きの声を上げた。
 リオウはゆっくりと顔を上げる。青い目が闇に沈み、頬は雪のように白く、そして赤い唇には薄く笑みを刷(は)いていた。
 無残に頭を失ったクウガの、赤く濡れた首の断面を、皮のブーツの先で押し潰す。そうしてゆっくりと、こちらに近づいてきた。

「リオウ……?」

 彼はこちらを一度も見ることなく通りすぎ、クウガを見おろしたようだった。ひい、と引き攣れたヒリュウの声がする。数秒後、ぱちんと音がして、わたしの背中にまた、生温かいものが飛び散った。それ以降、ヒリュウの声は聞こえなくなった。

 殺戮が、行われている。
 墜落する意識の中で、それだけを、理解した。

「楓子、一体なにがあった」

 目が覚めたら、ゲルの寝台に寝かされていた。ユーマの瞳が心配そうにゆれている。でもわたしは、顔の両側に置かれたユーマの手を、酷く恐ろしいと思った。

「リオウがおまえを抱えて、馬で帰ってきたんだ。あいつ、楓子を引き渡した後なにも言わずにゲルにこもって出てこないし、楓子は血まみれで1枚の上衣でくるまれてるだけだし、何が何だかわからない」

 リオウの名が耳を貫いて、全身が震えだした。息が乱れる。ユーマが眉を寄せてわたしの頬にてのひらを当てた時、そこを中心に、鳥肌が立った。

「嫌ッ!」

 ユーマの手を払いのけ、上掛けを掛けられた足を振りあげる。ユーマはそれをよけて寝台から立ち上がった。シーツの上で何度も手を滑らせながら、わたしは壁に背を押しつけて、上掛けを掻きよせた。

「いや、いやだ、来ないで」
「楓子……?」

 ユーマが手を伸ばしてくる。わたしは首を振り、頭を抱えた。

「いや、たすけて、シン、シン――」
「シンは、今遊牧民のところにいる。スオウが迎えに行っている。もうすぐ帰ってくる」
「お願い、見ないで。あっちに行って」

 ユーマは目を見開いた。唇を噛みしめて、呻き声のようなものを上げる。

「なぜだ、楓子。オレはなにがあったと聞いているだけだ」

 恐怖と、そして憎悪が、胸の底からこみあげてくる。
 体に貼りついていた血液はあらかた拭われていたが、取りきれなかった赤が白いシーツを穢している。

「楓子。オレを見ろ。話してくれないとわからない」
「いや、やめて。シン――」

 ユーマの目じりがカッと赤く染まった。

「いつまであいつを呼ぶ!」

 大きな両手で肩をつかまれ、わたしは悲鳴を上げた。構わずユーマは寝台に膝をつき、にじり寄ってくる。

「なにが、巫女よ!」

 泣き濡れた声で、叩きつける。

「こんなの、ただの、生け贄じゃない!」

 愕然と、ユーマは目を見開いた。
 彼の手からのがれようと、思い切りもがく。

「楓子、暴れるな! 傷口が開く」
「いやっ、離して!」
「だからじっとしてろ、――っ?!」

 突然、横殴りの力がユーマを弾き飛ばした。寝台から落とされたユーマは、うずくまって呻いた。
 そして、わたしの体を掬い上げるたくましい腕があった。風と草原の匂いに包まれて、彼のえりもとをぎゅっとつかんだ。

「シン」

 呼ぶ声が、涙に濡れてかすれた。背中と膝裏を抱く腕に、力がこもる。
 壮絶な怒りを孕んだ声で、シンがいう。

「楓子を泣かせるな」

 ユーマはまだ起き上がれないようだった。シンの背後から、もう一人の気配がした。

「おいシン、ユーマを殺してくれるなよ」

 スオウが、抱かれたままのわたしにそっと笑いかけた。痛みを内包した微笑みだった。

「楓子。リオウのあれを見たんだな」

 ぐらり、と視界が揺れた。リオウのことを思い出し、平衡感覚が失われていく。

「だいたいの事情は、リオウから聞いた。あれは特殊な体質で、産まれた時からすでに『半獣化』している。異様な力で家畜を殺したのは生後3日の時だ。それ以来、力を顕したことはなかった。今回、何がきっかけになったかをあいつは話してくれなかったが」
「……なにを、どこまで、聞いたの」
「アスカの手下に待ち伏せされたあと、ルリさんがおまえを刺した。そのあとリオウが暴走した、というところまでだ」

 では、ヒリュウとクウガに凌辱されたことを、リオウは話さなかったのだ。
 シンが厳しい表情でスオウを見る。

「暴走した、とはどういうことだ。リオウは何をした」
「オレの口からは言えない」
「リオウを連れて来い!」

 シンが怒鳴りつける。スオウは首を振った。

「リオウは今、心身の均衡を崩している。まともに話せる状態じゃない」
「一体何なんだ、おまえらは」

 噛みしめた歯の隙間から、シンは呻るようにいう。

「おまえたちを救っているのは楓子だろう! なのになぜ傷つける! どうして楓子はいつも泣いているんだ!」

 シンの言葉は、恐らくスオウやユーマが受けた衝撃以上のものを、わたしにもたらした。

(わたしは)

 さっきユーマに叩きつけた、自分の言葉が甦る。

(生け贄)

 涙があふれた。雪のように冷えた涙だった。