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還昇編

 シン以外誰もいなくなったゲル内で、わたしは彼の胸に顔をうずめ、ずっと泣いていた。シンは敷物の上にあぐらをかき、その上にわたしを横向きに座らせて、抱きしめた。
 苦しそうな表情で、シンは何度も優しく、髪を撫でる。

「もうここにいたくない。いたくないよ」
「楓子」
「ここは怖い。みんな怖い。わたしはいつか、気が狂ってしまう」

 シンの武骨な指が、頬に零れる涙をぬぐう。そして、青くゆるぎない双眸で、強くわたしを見おろす。

「ならばオレが連れていってやる。おまえが泣かなくてもすむ場所へ、どこへでも」

 腕に力がこもる。シンの厚い胸に頬を押しつけて、わたしはまた、泣いた。泣き疲れてぐったりと眠りに落ちるまで。

 眠り続けている間もずっと、悪夢を見続けていた。
 わたしの10倍はあろう大蛇にからめとられ、ゆっくりと締められる。押してももがいてもびくともしない。やがてあばら骨がきしみ、肺が圧迫され、ヒクヒクとのどが震える。そうしてゆっくりと、意識が奪われてゆくのだ。

 悪夢から抜けると、馬に揺られていることを知覚した。速足で黒毛の馬が草原を駆けていた。
 後ろから、たくましい男の腕が支えてくれている。
 かぎ慣れた草原の匂いに、途方もなく安堵して、体を預けた。頭のてっぺんにキスが降り、さらに強く抱きしめられる。

「おまえの弟のところへ行こうと思っている」

 野営の暗がりで、シンはそう言った。たき火の炎をぼうっと見つめながら、わたしは敷き物の上に両膝を抱えて座っている。

「ゲルを出る前に、お婆が居場所を教えてくれた。相変わらず飄々としていたが、思うところがあったんだろう」

 心の中の、やわらかい所がヒクリと動いた。けれどやがて硬化して、静まった。

 何日経過しただろう。追っ手はかかっていないようだった。
 草原を駆け、岩場を抜る。遠くにかすんでいたなだらかな山肌が徐々に近づき、ついに見えなくなった。麓(ふもと)に入ったのだ。見上げるほどの大木が太い枝を何本もはやし、日光を遮っている。
 若い雄馬は確かな足取りで、森の中を進んでゆく。

「森の中は冷えるな」

 シンは自分のショールをわたしの体に巻きつけた。吐く息が白い。帽子に手袋も身につけているのに、ひたひたと冷気が沁みこんでくる。
 もうすぐ、雪が降るのかもしれない。
 17歳になったばかりの頃からひとつ、季節が廻(めぐ)ったのだ。

「この辺りに川が流れているはずだ。それを遡れば、那岐の庵(いおり)があるはずなんだが」

 川音は確かに聞こえるのに、そちらへ足を向けても辿りつかない。
 敷きつめられた腐葉土を、オウルの蹄が噛んでゆく。

「さっきから同じところを歩かされているな。那岐は幻術を使うのか?」
「使えなかったはずだよ。那岐は力もあまり強くないから、狩りにも出てなかったくらい。『月狼族』じゃなくて、まるで普通の人間みたいだったの」

 馬に揺らされながら、わたしは思う。
 今さら那岐に会って、どうなる?
 変わり果てた自分を晒して、よけいに惨めになるだけだ。
 全身傷だらけで、中身も爛れた自分を、何も知らない弟に見られたくなかった。あの子は聡いから、わたしをひと目見ただけでいろんなことを察知するんだろう。それを思うと、身が竦む。

「どうしておばあちゃんは……那岐のところに行けって言ったんだろう」

 シンはわたしを見おろした。

「もしかしてとは思っていたんだが、楓子。おまえ弟に会いたくないのか?」
「会いたいよ。ずっと、会いたかった。でも、ただ会いたいっていうだけじゃ、喜ぶのに、足りない」
「……?」

 シンはよくわからない、という表情だ。わたしは目を伏せた。
 その時ふいに、何かにそっと頬を撫でられた気がした。羽のような、風のような、かすかな感触だった。思わず顔を上げると、耳の中へ直接送りこまれるように、静かに声が響いた。

「酷いな、姉さん」

 わたしはゆっくりと、目を見開いた。
 シンがわたしを抱きこんで、刀を抜く。喉もとに突きつけられた切っ先を横目で一瞥し、那岐は口端で笑んだ。
 馬上であっけにとられているわたしの、強張る手を下からとって、ごく間近で彼はいう。

「オレは貴女に会いたかったよ。それが姉さんにとって望まぬものであったとしても」

 蒼月の初宵の日、那岐はここへ連れてこられたそうだ。そして深夜、胸を押し潰すような苦しみにのたうち回ったあと、幻術の力を手にしていたという。

「なんの説明もなかったから、最初のうちは何度も逃亡を図ったんだよ」

 卓の前に、わたしとシンは座っている。ショールや帽子、武器類は最初に床に置いていた。シンはあぐらをかき、わたしは両膝を引きよせている。
 青い目をした女性が、ティーツァを置いてくれた。彼女には見覚えがある。名前までは思い出せないが、月狼族であることは間違いないだろう。控えめにお辞儀をして、庵(いおり)を出ていく。
 ストーブに火を入れ終えて、那岐も卓の前に腰を下ろした。床には丁寧に編み込まれた敷物が敷かれている。

 那岐は小さな庵(いおり)にわたしたちを招き入れた。いつのまにか川が出現し、それを辿っていくと木造の庵が2つ、ひっそりと並んでいた。ひとつは那岐のもので、もうひとつは側使えの女性が使っているらしい。
 庵には広い土間があって、窯や水瓶があり、調理場になっているようだった。正面が居間で、ストーブと卓が置かれている。さらに奥はついたてで仕切られていた。寝所だろうか。
 床も木造りで、皮の靴で上がると、ゴツ、と音がした。

「逃げようとしても駄目だった。どんなに進んでも、しばらくしたらここに戻ってくるんだ。強固な結界が張られていて、せっかく手に入れた幻術の力も効かなかった。側使えのユルハは何も教えてくれないし――そもそも大したことを知っていなさそうだったし、つめ寄れば『ごめんなさい』と泣かれるし。何もわからないし、身動きが取れないしで、まるで悪夢みたいだったよ」

 涼やかに微笑みながら、那岐がいう。
 わたしは居心地悪く、彼の声を聞いていた。
 那岐は少しも変わっていない。「困った」といいながら、何も思い悩んでいないように笑う。
 少しクセのあるやわらかい黒髪に、深い色合いの黒い瞳。1つ年下だけど、背はとっくに追い抜かれている。細身の体を紺青の上衣で包んでいた。
 那岐はなにも聞いてこない。わたしがここに来た理由も、シンが誰なのかも、気にならないわけがないのに、自分の状況ばかりを語る。

「ヤケになりかけたときに、庵の箪笥の奥に、書物を見つけたんだ。字の読み方はお婆に教えてもらっていたから読めた。それで大体、わかったよ。自分の立ち位置っていうのがね。オレは巫子候補だったけど、脱落した。だから遠方に追いやられた。それがわかったら、肩の力が抜けた」

 やはり那岐は、もうすでに、すべてを知っていたのだ。
 肩に黒い塊がのしかかってくるようで、前のめりになり、膝に胸がくっついた。那岐がいう。

「姉さんやお婆、ユーマとか……。懐かしい顔を思い浮かべて、悲しくなる時もある。いや、そんなことしょっちゅうかな。だから会えてとても嬉しいよ。頼りになりそうな護衛もついていることだし、これなら帰りも安心かな」

 帰り。
 無意識に、両手を握りしめる。
 やっぱり来るんじゃなかった。シンがティーツァを飲み終えたら、ここを出よう。出してくれた女性には申し訳ないけれど、わたしの胃は消化できるような状態じゃない。
 シンのコップを見ようとしてチラリと顔を上げた時、那岐が小さく笑った。

「帰りたい?」

 図星を指されて肩が跳ねる。同時に申し訳なさが襲ってきて、胸が塞いだ。

「ずっと、那岐に会いたかった。本当だよ」
「うん」
「でも、いろいろあって。本当に、いろいろ。そのせいで、会いたい気持ちが、追いやられてる」
「そうみたいだね。驚いたよ。手の甲や顔にも傷がついてるし、脇腹をかばっているのは、そこにもケガをしているから? それに雰囲気がまるでちがう。姉さんじゃないみたいだ」

 心を抉られて、沈黙した。
 やはりそうなのだ。わたしは、変わってしまった。何もかもなくしてしまった。
 シンが何かをいいかけた時、那岐の手が、握りしめて白くなったわたしの手に重なった。思わず手を引いたけど、きゅっと握られて逃げられなかった。
 那岐が微笑む。

「ほら、力抜いて。眉間にもシワが寄ってる」

 那岐の人差し指が、くりくりとわたしの眉間をもんだ。

「な、那岐」
「ああ、本当に顔色が悪いな。ティーツァが重いなら、白湯(さゆ)を出そうか? 薬湯(やくとう)の方がいいかな」
「あの、いいの。なにもいらないから、気にしないで。顔が見られてよかった。わたしたちそろそろ」
「ユーマたちは元気?」

 手をつかんだまま、那岐が聞いた。呻き声がもれそうになるのを、抑える。那岐の、深い色合いの瞳はいつもどおり穏やかだ。でもその奥に、こちらを探るような光がある。
 そこから目をそらして、なんとかこたえた。

「わからない。集落を出て、何日も経つから」
「そんなに怯えないでくれるかな。隣の彼がさっきからオレを睨みつけてて怖いんだ」
「怯えてなんかないよ」
「震えてるよ」

 那岐が口端で笑う。これは、わかる。那岐はちょっと怒っている。わたしは眉を寄せて、咎める目線を向けた。

「震えてるのは、こんなふうにきつくつかまれて痛いからだよ」
「ユーマたちと何かあった?」

 那岐の言葉に、違和感を覚えた。
 まるで『蒼月の儀』を知らないような質問の仕方だ。