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「なにも、知らないの?」
「姉さんが引っかかってるのはそこ? いいよ、オレが知ってることぜんぶ話すよ。だからちゃんと座って」

 ぎこちなく、上げかけていた腰を下ろした。シンがこちらを心配そうに見ている。

「『蒼月の巫女』は青い月の夜に、3人の『闘士』と1人の『鋼の王』に『闘気』を与える。その力で『闘士』たちは『月狼の民』が『獣化』するのを抑える。オレが知っているのはそれだけだよ。たぶん君が『鋼の王』だと思うんだけど、あってるかな」

 那岐がシンを見る。シンは固い表情のままうなずいた。

「ありがとう。ご存知かと思うがオレの名は那岐。彼女の弟だ。あまり似ていないけどね」
「シンだ。お婆からこの場所を聞いて、やってきた」
「そう。お婆から」

 那岐は複雑な表情で沈黙する。
 わたしはそんな弟の顔を、ぼうっと見ていた。
 那岐は知らなかった。あの儀式の中身を、知らないでいた。

「オレはずっと考えていた。なぜお婆はオレをここに閉じこめたのか。ここに連れてこられた夜、オレは幻術を手にした。最初はこの力が、『蒼月の儀』になんらかの支障を与えるせいかと予測した。仮にも巫子の候補だったから、力の反発のようなものが起こるのかもしれないと。でも、今の姉さんを見て、そうではないかもしれないと感じた」

 那岐の表情から、笑みが剥がれ落ちる。

「姉さんは酷使されている。体中、傷まみれになるほどに。『闘士』がいて、『鋼の王』がいて、どうして巫女がそのような状態になるのか。それは、彼らが率先して、姉さんを苛んでいるからではないのか?」
「なにをいう!」

 シンが激昂して片膝立ちになった。那岐はシンをまっすぐに見る。

「オレが楓子を苛むなど、するわけがないだろう!」
「シン待って。落ちついて。那岐、ちがうの。これはわたしが不注意で」
「姉さんのいうことは信じないよ。オレから逃げようとしてばかりいるから。オレが考えたのは、そう、たとえば『蒼月の儀』に姉さんの生き血を必要とするなど、生け贄まがいのことをさせられてるんじゃないかということだ。もしそうだとしたら、オレがここに閉じこめられている理由が簡単にわかる。弟としてそのようなこと絶対に許さないからだ」

 生け贄。
 その言葉に、心の芯が冷えていく。
 那岐の長い指先が伸ばされて、わたしのあごの輪郭をなぞった。

「この傷は、誰につけられた?」
「……」
「『闘士』は誰だ」
「スオウとユーマ。それに、リオウだよ」
「妥当だな。リオウが少し意外だけど」

 リオウのことを口にした途端、悪寒が全身を走り抜けた。ぐっとそれをこらえて、わたしは続けた。
 この聡い弟を、これ以上ごまかすのは無理だ。

「那岐のいうことは、当たってるよ。でも、いろいろ複雑なんだ。本当に」
「いいよ。少しずつでも」

 那岐は微笑を浮かべた。

「話すのがつらいなら、こっちの狂犬みたいな彼から聞くけど?」
「いいの。シンは最近会ったばかりだから、それ以前のことはうまく説明できないと思うから」

 頬にそえられた那岐の手をとって、そっと握った。

「ゆっくり話すよ。途中で泣いてしまったら、ごめんね」

 すべて話し終えた頃には、あたりが夕闇に包まれていた。
 途中でつっかえたり、涙を零したりするわたしの話を、辛抱強く那岐は聞いていた。途中で言葉や感情を挟んだりしなかった。すべて話したけれど、どうしても、あのことだけは明らかにすることができなかった。
 『狼獄の谷』の横穴で起こった、2人の男の暴行と、リオウの凶行を。

「つらいことを話してくれてありがとう」

 那岐が感情をうかがわせない声で、いった。
 わたしは涙をとめられずに、肩を震わせていたから、シンが支えてくれていた。

「やはりあいつらは、人間ではない」

 どろりと暗い那岐の声に、顔を上げた。涙でかすんだ視界の中で、那岐はまっすぐにわたしを見つめている。そして吐き捨てるようにいった。

「――けだものだ」

 線の細い那岐の全身を、濃密な殺気が包んだ。

 ユルハさんが夕餉を運んできた。卓に並んだところで、彼女は一礼して庵を出ていく。
 那岐は馬乳酒の注がれた陶器の椀をつかみ、喉を潤した。

「姉さんには、自分が『被害者』だという自覚を持ってもらいたい」

 からになった椀を卓に置きながらいう。

「トウリが『獣化』しようが、ルリさんが悲しもうが、姉さんには一切関係がない。死を悼むのはかまわないが、責任を負うのは間違っている」
「でもわたしがきちんと『儀式』をしていれば、トウリは死ななかった」

 彼の名を口にするたびに、胸が震える。
 優しい人だった。トウリが死んでいい理由なんてどこにもない。
 けれど那岐は、厳しい目でわたしを射抜き、いう。

「ちがう。姉さんのせいではない。なぜなら姉さんとオレは、『月狼の民』ではないからだ」
「……どういうこと?」

 那岐は立ち上がり、ついたての奥から1冊の本を持ってきた。濃茶色の表紙の分厚い本だ。相当古いらしく、ふちが破れて、全体的に黄ばんでいる。

「これは、もともとこの庵に保管されていた本のうちの1冊だ。これにはどのようにして『蒼月の巫女』を選び、この地に連れてくるかについて書かれている。お婆がなにを思ってこの本を置いていったかはわからないが、それだけでは罪滅ぼしにならない」

 那岐のいう意味が、すぐには理解できなかった。ストーブの火が爆ぜるだけの、静かな室内で、那岐は続ける。

「まず大前提として、『巫女』も『鋼の王』も、『月狼族』からは生まれない。『鋼の王』は『巫女』の生誕に合わせて、大陸のどこかに生まれ落ちる。そして『巫女』はこの世界とは別の座標の世界に生れ落ちる。つまり、お婆は別の世界に生まれたオレたち候補者を、無理やりこの大陸に攫ってきたんだ」
「ま、待って那岐。それはつまり――」
「オレたちには父も母もいた。だがそれは『月狼の民』ではない。まったく別の世界の、もしかしたら平穏かもしれない場所で生まれたんだ。生後間もない目も開かぬオレたちを、お婆は術力で無理やり奪い去った。本当の家族から奪い、ただ自分たちの一族を生きながらえさせる目的のためだけに、オレたちが本来享受するはずだった未来を奪った。オレたちが本当の姉弟なのかどうかも、今となってはわからない」

 全身の血が引いて、体の内側がカラカラに乾いてゆく。

「あのけだものたちは未来を奪うばかりか、姉さんの人としての尊厳を踏みにじった。万死に値する行為だ」

 青い目ばかりの一族の中で、那岐と自分の目だけが黒く見えていた理由――。
 わたしはゆっくりと両手を持ち上げて、口もとを覆った。

「『闘士』たちがこの事実を知っているかどうかはわからない。けれど女性の体を苛んだ罪は重い。姉さんをこのまま帰す気はなくなった。強固な結界を貴女の回りに編み上げよう。けだものたちはそのまま苦しみ滅びればいい」

 これまで何度も、地面が崩れ、飲みこまれる感覚を味わった。
 これ以上落ちることができないと思うところまで沈んだと思っていた。
 さらに先があったなど、思いもしなかった。

 ここへ来てから何日経ったのか、もうわからない。
 那岐の寝台を借りて、そこでずっとうずくまっていた。
 シンや那岐がスープを持ってきてくれるけれど、頑張って飲んでもすべて吐いてしまう。ティーツァも受けつけず、水だけを飲んで過ごしていた。
 体中に刻まれた傷は、那岐の術力でほぼ完治した。幻術に癒しの力はない。那岐のそれは、幻術とはまったく別のものだった。巫子の力の欠片だろうか。

 こんなことではいけない、うずくまっていてもなにも変わらないし、逃げることもできない。
 そう自分にいい聞かせても、どうしても体が動かない。ユルハさんの、青い目を見るだけで悲鳴を上げてしまう。彼女はこの庵に顔を出さなくなった。

( あんなクソったれな一族、とっとと滅びちまえばいいんだ )

 吐き捨てるようなアスカの声が、ぐるぐると頭を回る。
 アスカはなにを思って、そう言ったのだろう。どういう経験と思考を経て、結論に辿りついたのだろう。

 誰かを恨むことにも、怨嗟の呻きをあげることにも、疲れ切っていた。
 いつも心臓が悲鳴を上げて、体を縛りつけていた。

「姉さん、もうあれから20日が経つ。きちんと食べないともたない」

 那岐が首の下に手を差し入れて、上体を起こす。スプーンを唇につけられると、鼻孔に濃厚な匂いが漂って、吐きそうになる。がんばって口に含み飲み下そうとするけれど、喉が動いてくれない。

「駄目か」

 わたしの口もとを手拭いでふきとって、那岐は眉を寄せた。力が入らなくて、くたりと彼の胸に体を預ける。那岐の手のひらが肩を包んだ。

「こんなに痩せてしまって。もう骨と皮しかない。これでは緩慢な自殺と同じだ」
「やはり追っ手はかかっていないようだ。結界の外に出てみたが、静まりかえっている」

 シンが近づいてくる気配がした。まぶたが重くて、上げられない。

「追っ手の指示を出すのがスオウなら、もしかしたら楓子を追う気はないのかもしれない。けれどアスカは別だ」
「アスカのことは知っている。彼は心に闇を抱えた人間だ。10を数えるくらいのころ、両親が目の前で同時に『獣化』してまだ赤子だった弟を喰らった。彼らは次にアスカを喰おうとしたが、当時18歳だったスオウが異変を察知し、ゲルに踏みこんで彼らを斬った。スオウは一族から称えられ、名声を上げた。これをきっかけにアスカは心をゆがめ、一族を憎むようになった。そんな彼が力と幻術とカリスマを備えていたことは、不幸なことだ」
「……。だがオレは、奴に同情する気持ちは一切起こらない。唾棄すべき人間であることに変わりない」
「同感だ」

 那岐の体が傾いて、そっとわたしの体を寝台に横たえた。なにも考えたくなくて、枕に顔をうずめるように、うつぶせに寝返りをうつ。
 シンが沈痛な声でつぶやきを落とす。

「痩せたな」

 寝台がきしむ。シンが腰かけたのだ。大きなてのひらが、髪を梳くように後頭部を撫でる。

「どうしてほしい、楓子。以前もいったように、おまえが望むことはなんでもしよう」

 シンが心配している。でも、彼にかける言葉が出てこない。
 それからさらに日数を経て、わたしは急激に傾いていった。
 時折なにかが足を引っぱった。やわらかく、しかし途方もなく冷たい。それは『死』の影だった。

「このままでは駄目だ。なんとかしなければならないな」

 ついたての向こうで、那岐とシンが話し合っているのが聞こえてくる。

「楓子は心が冒されているんだ。心を癒さなければ治らない」
「その通りだ。そこで一計がある。ここに置いてあった書物に、『召喚の儀』について書かれたものがあった。それには『送還の儀』についても書かれている。ひと通り読んでみたら、今のオレの術力なら実行することができそうだった。試しに別座標の世界を『見て』みたら、争いがなく、飢えもなく、医療技術も整っている場所だった」

 そこまで聞いて、耳鳴りが強くなった。思考がゆっくりと闇に呑まれていく。
 わたしは深く、眠りに落ちる。