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 翌日、2人が寝台へやってきた。最近ずっと耳鳴りがして、人の声がうまく聞き取れなくなっていた。
 だから、那岐の言葉は穴だらけで、うまく理解ができなかった。

「還るのは姉さんの『半分』だけだ。実体は薄くこちらに残る。手も触れられるし、ぬくもりもある。怖くなったらすぐに還ってこれる。だから安心して。オレがずっと姉さんのことを『見て』いるから」

 頭が働かない。那岐は寝台のそばに膝をついて、わたしの手の甲を撫でた。
 シンが痛みをこらえるように、見おろしている。青く揺れる双眸が悲痛な思いを内包している。彼の名を呼んだけど、声にならずに呼気だけが抜けた。
 那岐が体を離し、シンと代わる。

「おまえは今まで、たくさん、悲しい思いをしてきた」

 体温の高いてのひらが、頬を包む。

「楓子は誰よりも他の者のことを考え、あらゆることに耐えてきた。だから今は、自分を癒すことだけを考えろ」
「……しん」

 細く小さな声が、すべり出た。シンは微笑んで、ふわりと羽のように口づける。それはとても心地よくて、安心感をもたらすやわらかさだった。

「もうずっと、会えなくなるわけじゃない。おまえの記憶は失われるかもしれないが、楓子。オレはずっと、おまえのことを想っている」

 シンの手が、わたしの手を包む。優しくて温かくて、でも唐突に理由のわからない寂しさに襲われて、目じりから涙が零れた。指の背でそれを受けとめて、シンは静かに微笑した。
 やがてシンはわたしをショールで包み、靴をはかせ、手袋と帽子を身につけさせた。那岐と3人で庵を出て、馬に乗る。力の入らないわたしをしっかりと抱えて、シンは言った。

「おまえを送るには、雪原にある『力場(りきば)』でないといけないらしい。何日か駆ける。力を抜いて、オレに体を預けていろ」

 弱った体に長距離移動は厳しく、ほとんど眠っていたので道のりのことをあまり覚えていなかった。
 雪原の上で那岐がわたしを抱き、印を結び、音の羅列を口にした。シンはずっと背後から、わたしを見つめていた。視線の熱さを肌で感じながら、わたしは遠のく意識を手放した。

 こうしてわたしは、日本に『戻って』きた。
 座標を超える時に時間軸が歪み、幼い姿に戻った。それとともに、記憶も失われていた。しかし体のうちにぽっかりと空洞があいていた。

 わたしは淡々と、日本での日々を過ごした。大学の2部に入学が叶い、児童施設育ちとしては充分すぎるほど順調に歩んでいた。
 けれど、身のうちをつねに暗い影が食んでいた。普段は無視できるほどの痛みだったが、ふいにうめき声がもれるほどの疼きに襲われることがあった。
 痛みの名は、『寂しさ』だった。
 どの人といても、いつも寂しかった。
 それをわたしは、親がいないせいだと思っていた。

 でも、ちがった。

 声が聴きたかった。
 頬に触れたかった。
 その腕できつく、抱きしめてほしかった。

「……シン」

 かすれた声で、呟いた。
 目の前を覆い尽くしていた闇が晴れ、野生の風が髪を攫い、天空に果てのない蒼穹が現れた。青々と茂る草原を、狼たちが踊るように走り抜けてゆく。

 これが、わたしの世界。

 生まれて間もなく、理不尽な力に、攫われた。でもここで、わたしは生きていた。トウリに出会い、そして失い、スオウに頼り、ユーマと涙を交わし、そしてリオウの激情に触れた。アスカに蹂躙され、その果てに、シンに出会った。
 すべてに導かれ、自分の足で走り抜けて、今、わたしはここにいる。
 それが、わたしだ。