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風葬編

 火の爆ぜる音が鼓膜を引っ掻く。
 チラチラと赤い光が、まぶたの奥で踊っている。
 うつぶせた体の下に、固い地面がある。とても冷たくて、身震いしながら目を開いた。
 身に着けていたショールはすでになく、帽子と手袋も身につけていない。無残に破かれた上衣と下着がかろうじて肩にひっかかっている。下肢はむき出しにされ、冷気に素肌を晒していた。靴だけは履いたままの状態だ。

 どれくらい時間が経ったのだろう。
 鉄を飲んだように重い上半身を、地についた手で持ち上げる。その時手首に違和感があり、目を落とした。傷だらけのそこに、荒縄がきつく食い込んでいる。拘束されているのはそこと、同じ側の片足首だけのようだ。縄は地面に打ちこまれた杭に繋がっている。
 立ち上がろうと思っても、下半身に力が入らない。ずるずると地面を這うように移動して、杭から縄を外そうと試みた。けれどぎっちりと固く結ばれた荒縄に、震える指先では歯が立たない。

 あきらめて周囲を見渡すと、ユーマがうつぶせに倒れていた。さらに、正面の岩壁に背をもたせ、片膝を引きよせた格好でうつむいているアスカが目に入る。とっさに身構えた。
 アスカは動かない。眠っているのだろうか。
 炎に照らされて、短く切られた髪が光っている。ふと、眉をひそめた。赤茶色だったはずの髪が、毛先だけ銀色に侵食されている。それがどういう事実を表しているのか、すぐに考えが及ばず、わたしは縫い止められたように動けずにいた。

「気分はどうだ?」

 ふいに、アスカの愉悦を孕んだ声が響いた。ゆっくりと頭を上げてこちらを見る。

「2度ならず3度まで、オレに抱かれた気分は」
「……最低だよ」
「記憶が戻ったのか」

 わたしは無言で見つめかえした。それがこたえになった。
 アスカは薄く笑みを浮かべる。

「どちらにしろ、オレにはおまえが、自ら進んで火の中に飛びこんでくる阿呆な虫にしか見えないがな」

 言葉に詰まる。確かに、1度目は抜きにしても、2度目と3度目は自分からアスカのところへ足を運んでいる。

「今回はアスカが那岐を攫ったからでしょう」
「弟を助けるために危険を冒す巫女殿か。たくましいな。2度目の理由は?」

 地についた手を握りしめた。トウリの名を、アスカの前で口にすることはしたくなかった。アスカは喉の奥で笑う。

「おまえの思考回路はだいたい想像がつく。しかし哀れなもんだな。同族でもないクソどもを救うために男に抱かれ続けるんだから」

 『同族でもない』――。
 アスカの正しい指摘に、わたしは目を見開いた。

「どうして知ってるの」
「気づかない方がおかしいだろ。おまえと、あの弟はちがう。けだものの匂いがしない。オレはあの腐った人モドキどもが大嫌いなんだよ」

 匂いがちがう。それは林の中で犯されたときに、告げられたものと同じだった。昔からアスカは気づいていたのだ。
 アスカはゆっくりと立ち上がり、わたしの前に片膝をついた。後ずさる二の腕をつかみ、正面から見据える。
 アスカの瞳孔が、不自然に開いている。

「おまえを抱くたびに、オレのけだもの臭さがしみついて、清廉な香りが穢されていくさまは見モノだった」
「離して」
「終わりの始まりとは、よくいったものだ。オレの終わりはいつから始まったんだろうな。『闘士』に選ばれてからか、それとも――もっと昔か」

 アスカの腕が引かれ、わたしは彼の胸の中に倒れこんだ。強張る肩を、もう片方の腕が抱く。そしてキスがひとつ、落とされた。
 かすめるように淡く、右の頬に。

「アスカ……?」
「こういうのを邪魔するのはいつも、あいつだな」

 わたしの髪に顔をうずめながら、アスカは皮肉めいた笑いを漏らす。そっと体を離し、よろめきながら立ち上がった。

「クソどもの長がやってくる。たまには出迎えてやるか」

 アスカが出ていくのを、息をつめて見ていた。気配が遠ざかり、やがて消えるのを待って、長く息をつく。それからほのかに残る唇の感触を、指でなぞった。
 アスカの過去を思い出す。彼の両親は同時に『獣化』し、目の前で弟を喰った。次にアスカへ爪を伸ばす直前に、スオウが両親を殺した。
 アスカは巨大な闇を抱えている。年を経るごとに肥大化して、彼自身を押しつぶしてしまうほどに。
 わたしは辺りを見回した。栗色の髪の男がうつぶせに倒れ、荒い息を繰りかえしているのが目に入る。

「……ユーマ!」

 もつれる足をずりずりと動かして、彼のそばに辿りつく。肩をゆらして声をかけると、苦しげなまぶたがゆっくりと開き、青い目が現れた。

「楓、子?」
「良かった、ユーマ。大丈夫? 苦しいところはない?」
「おまえ、どうして、――ッく」

 体を折り曲げて、ユーマは激しく咳きこんだ。体内を毒が蝕んでいるのだ。
 ユーマは体を拘束されていない。無造作に転がされているだけだった。
 苦痛にゆらぐユーマの目が、わたしを捕える。咳きこみながら土を爪で掻き、なんとか上体を持ち上げて、自分のショールを脱いだ。

「これを着ていろ」

 息を乱したまま、岩壁に背をもたせた。ショールを受けとって肩に巻きつけると、いくぶん寒さが和らいだ。

「ありがとう」
「いくらでも罵ってくれ」
「それは、今のことを? それとも5年前のことを?」

 ユーマの動きが止まった。ゆっくりと、目が見開かれていく。

「おまえ、記憶が?」
「うん、思い出したよ。ついさっきね」
「そうか」

 暗い目で、ユーマはうつむく。『記憶が戻ってよかった』と手放しで喜べないものが、わたしたちの間には確かにあるのだ。

「ねえユーマ。もしわたしが『月狼族』じゃなくて、他の世界の人間だったっていったら、驚く?」

 唐突な質問だったのだろう。ユーマの眉が、訝しげにひそめられた。

「いったいなんの話だ? 他の世界って?」
「いいの。なんでもない」

 やはり、ユーマはなにも知らない。スオウとリオウも同じだろう。わたしは首をふって、別の話題に切り替えた。

「わたしがいない5年の間、何人が『獣化』した?」
「それをおまえが知る必要はない」
「必要かそうじゃないかは、わたしが決めることだよ」

 ユーマはいい返そうとして、再び激しい咳に襲われた。体を折り曲げ、胸をかきむしって耐える彼を、ただ見守ることしかできなかった。やがて嵐が去り、呼吸は荒くとも咳から逃れて、ユーマはゆっくりと、壁に背を戻した。

「酷い体たらくだ。今の『月狼族』より、オレの状態の方が惨めだな」
「話して、ユーマ」
「……残り、12人だ」

 わたしは言葉を失った。
 5年前は、少なくとも200人はいたはずだ。

「オレを含めて、12人。アスカの一党はどれくらい残っているのかわからないから、入れていない。けれど様子を見る限り、10人くらいしか残っていないだろう」
「まさかそんな。いくら5年経ったとはいえ、早すぎる」
「ああ、そうだ。『蒼月の巫女』と『鋼の王』を失った日から、一族の運命は急速に傾いていった。まるで泥船のように無残に沈んでいる最中だ。間もなくすべてが呑まれるだろう。しかしこれは運命だ。呪われた我が一族の、正しく辿りつくべき終焉だ」
「そこまで悟っていて、どうしてユーマは、アスカに与(くみ)したの? わたしを手に入れようとしたんだよね。それは、終わりから逃げようとするのと同じだよ」
「ああ、そうだな。オレは結局のところ、どうしようもなく弱いんだ。楓子。間もなく、スオウが『獣化』する。リオウもだ。すでに兆候が表れている。よく見なければわからない程度だが、犬歯が鋭くなり、爪が固く強靭になりつつある」

 わたしは愕然と、目を見開いた。
 『獣化』の兆候は、表れる者とそうでない者がいる。一般的に、力――闘気が強いほど兆候が表れ、ゆるやかに『獣化』していくのだ。トウリは急速に『獣化』した典型的な例だった。
 アスカの、不自然に開いた瞳孔と、毛先だけ染まった銀色が頭をかすめる。
 ユーマは力なく笑みを浮かべた。

「他にも、12人のうち5人に『獣化』の兆しが見られる。残りはすべて、10歳以下の子どもばかりだ。子どもたちを見ていると、どうしようもなく苦しい。徐々に変化していくスオウたちの牙が、いつ、子どもたちを引き裂くかと思うと、恐ろしいんだ。トウリのように、スオウが仲間を殺してしまうのではないかと。そしてオレが、スオウたちを殺してしまうのではないかと」

 ユーマは片手で目を覆い、うつむいた。

「オレは楓子に縋ろうとした。アスカという劇薬に手を出してでも、とり戻したかった。会いたかったんだ。おまえに……」

 あの時と変わらない。ユーマは酷く、孤独に見えた。
 彼の震える肩に、思わず手を伸ばしかけて、そうしないように拳を握りこんだ。

「わたしはユーマがしたことを、きっとずっと許せない。ユーマのせいでシンと那岐が、ユルハさんとオウルも、危険に晒されてる」
「ああ、そうだな。おまえのことも、傷つけた」
「それにわたしはもう、『儀式』をしない。そう決めてるの」
「ああわかってる。もう、ずっと前から――シンが目の前に現れた時から、わかってる。『鋼の王』は『闘士』の頂点に立つ者じゃない。『蒼月の巫女』をオレたちの穢れた牙から救い出す者なのだと、わかっていたんだ」

 発作のように、ユーマの体を咳が襲おう。彼に伸ばす手を、今度は止めなかった。苦しみを逃すように、背中をさする。
 咳がやみ、それでも荒い息の下で、ユーマはいった。

「逃げろ、楓子。アスカから。そして、オレから」

 上衣を脱いで、わたしの肩に掛ける。むき出しだった下肢が、長いユーマの上衣で隠された。ショールをその上から掛けなおす。

「徐々に毒が薄らいでいくのを感じる。間もなく回復するだろう。今宵は青の満月だ。今のオレに、情欲を抑えこむ理性はない」

 嘘だ。
 ユーマはわたしを逃がそうとしている。

「駄目だよユーマ。償いをしてもらうまでは、一緒に連れていく」
「縄をほどいてやる。スオウが逃げたと聞いた。恐らくリオウを連れて助けに戻ってくるだろう。アスカはリオウを過小評価している。あいつの本当の能力を知らないんだ。オレは去年、初めて見た。リオウだとわかっていても、悪寒を止められなかった」
「……そう」
「おそらくアスカも『獣化』しつつある」

 やっぱり、そうなんだ。わたしはそっと目を伏せた。

「だから那岐もシンも、いずれ助け出されるだろう。アスカがここに戻ってこないのも、今リオウたちと戦っているからかもしれない。そのスキに楓子は遠くへ逃げるんだ。安全なところで隠れていろ。遊牧民のゲルでも、村の宿でもいい。あとで必ず、月狼の狼か、シンがおまえを見つけてやってくる」

 ユーマはわたしの手を取って、固く結ばれた縄をひっぱる。結び目を慎重に観察しつつ、するすると解いていく。

「相変わらず器用だね」
「こういうのにはコツがいるんだ。足の方を見せてくれ」

 2人で向かい合って座っていると、昔のことを思い出す。ユーマとリオウとトウリと、いつも一緒にいた。あの穏やかだった過去はもう2度と手に入らない。
 こんなにも遠くまで来てしまった。

「さあ、できたぞ。きちんと靴をはけ。オレの帽子と、手袋を。少し大きいが、ないと外に出たとたん冷えてしまう」
「……ユーマ」
「外は暗いから気をつけろ。星を頼りに進め。まっすぐ北に行けば、小さな村に辿りつく。オレの金を持っていけ。何日かは宿に泊まれるだろう」
「でもユーマ、やっぱり一緒に」
「振りかえるな。そしてオレのことを許さないでくれ。永遠に」

 ユーマは再び背を壁に預け、微笑んだ。薄く青い目が、優しくわたしを見つめていた。

「愛していたよ、楓子。小さい時から。草原を駆けまわっていたころから、楓子だけを、ずっと」

 わたしは横穴から駆けだした。
 零れ落ちる弱さを、手の甲でぬぐった。

 『蒼月の巫女』はもういない。
 狂った歯車は、狂ったまま5年間、時を刻み続けていた。
 それが今、やっと終焉を迎える。
 わたしはそれを、自分の手で果たさなければならない。