よろめきながらも、固い蹄で雪を踏みしめて、オウルは立ちあがる。しっとり濡れた黒毛の皮膚から蒸気が立ちのぼり、低くいなないた。
「オウル、よかった」
オウルのたてがみを撫でる。賢い雄馬は、優しい瞳でわたしを見つめた。
那岐がユルハさんの手を引いて、こちらへ戻ってくる。
「立ち上がれたんだな。もう安心だ」
「オウルは強い馬だもの。ずっと長い距離を乗せてくれた。とても優しい子なんだよ」
「ああ巫女様、よくご無事で――」
ユルハさんが顔を覆って涙をこぼす。わたしは微笑んで、薄桃色の上衣に包まれた背中を撫でた。
「ユルハさん、ごめんね。わたしはもう『巫女』をやめたんだ。だから普通に、楓子って呼んでください」
「巫女様……?」
泣き濡れた青い目がわたしを映している。17歳だったあのころより少しだけ大人びた今のわたしが、見つめかえした。
「シンはどうしている?」
「リオウと一緒に狼と戦ってる。何十匹も出てきてるの。谷中の狼がここに集まってきてる」
「そのようだな。すごい臭いだ。オレも加勢に行きたいところだが――」
獣と血の臭いが混ざりあう。狼の咆哮と、2本の刀の奔る音が、白く冷えた空間に響いた。
いつアスカが出てくるか分からない状況で、那岐はわたしとユルハさんのそばを離れることができないのだろう。
「姉さん。アスカの手下を無残に殺した力はリオウのものなのか? 彼にそんな力があったとは知らなかった」
「うん。わたしも、知らなかったよ」
少しうつむいて、続ける。
「でも狼と『獣化』しつつある一族には効かないみたい。だからきっとリオウは、アスカに勝てないよ」
「そうか。だが今となっては戦力的にこちらの方が上だ。もう安心だよ」
微笑みつつも、那岐は緊張感を解いていない。
徐々に狼の呻り声が少なくなり、やがて完全にやんだ。後続の狼もやってこない。那岐が慎重にあたりを覗った後、わたしたちを促した。
「終わったようだ。行こう」
わたしはユルハさんの手をとり、那岐はオウルのたずなを引いて、シンたちの方へ歩を進めた。遠くにいる2人は、肩で息をしながら刀の血を払い、鞘におさめている。
やがて薄闇に浮かびゆく光景に、わたしは足を震わせた。
銀色の狼たちが、一面に横たわっている。湯気が立ち昇る鮮血が、白い地面を塗り替えていた。シンとリオウはその中心に佇んでいる。互いを見ずに、静かに無数の骸(むくろ)を見おろしていた。
この狼たちは、『月狼族』の成れの果てなのだ。
シンの方が先に、わたしたちに気づいた。それ以上進むなと手で制して、狼を踏み越えこちらへやってくる。遅れてリオウが気づいて、同じように足を向けた。青い瞳に暗がりが沈んでいる。
「すごい数だなぁ」
地面に敷きつめられた毛皮を見ながら、リオウはぽつりといった。シンはオウルのたてがみを撫でながら、安堵の息をつく。
「オウルよかった。治してもらったんだな」
「この寒さで流血が最小限に抑えられていた。うまく治せてよかったよ」
「恩に着る」
オウルが主人に面(おもて)をすり寄せる。一瞬やわらいだ空気を、ざらついた低音が崩したのはその時だった。
「ずいぶんと殺(ヤ)りまくったな。残虐さはオレ以上なんじゃねえか?」
ユルハさんが小さく悲鳴をあげて、あとずさる。わたしは彼女の肩を抱いて、後ろへ下がった。シンたちが庇うように前に出る。
谷の奥から人型に黒く、長い影が伸びる。
足音にしては不自然な、引きずるような音が地面を這った。アスカはすでに刀を抜き、切っ先で雪を掻きながら、ゆっくりと近づいてくる。月明かりにその姿が浮かび上がり、わたしは両手で口もとを覆った。
アスカの『獣化』は急激に、進行していた。
耳は尖り、薄く笑んだ唇から犬歯が突き出て、皮膚を裂いている。刀を握る手の爪は刃のように鋭く伸び、背骨は山型にゆがんで前傾姿勢になっていた。
彼の背後に、影がある。スオウが佇んで、じっとアスカの背中を見つめている。自身の背にはぐったりと動かないユーマを負っていた。
アスカが顔だけ動かして、スオウを見た。
「行けよ」
スオウは表情のない面でアスカの横を通りすぎ、わたしたちの方へ歩を進める。リオウが体を斜めにして道をあけ、ユーマを背負ったスオウをわたしの隣に促した。
スオウと目があう。感情を殺した双眸が、わずかにゆるんだ。
「無事でよかった」
わたしはうつむくように、頷いた。ユーマは気を失っているようだが、呼吸は穏やかだ。
スオウはシンに目を向ける。
「シン。最後まで他力本願で申し訳ないんだが」
凜と冷たい空気が張りつめる。いつのまにかちらちらと、淡い雪が降っていた。
「あいつを終わらせてやってくれ」
アスカの青い双眼に、消し炭のような黒い塊が凝(こご)っている。
彼のいっていた『ずっと昔』。その時アスカの精神は大きく傾(かし)ぎ、取り返しのつかない歪みを生んだのだろう。
「抜け」
アスカがそう言って、ゆっくりと刀を持ち上げる。切っ先は一寸の狂いなくシンに向けられている。銀に侵食されつつある髪が、月の光に鈍く光った。
ゆっくりと、薄い唇が弧を描く。
「まだ鞘におさめるには早いだろ。今宵は蒼月。光はまだ、中天にある。おまえが『鋼の王』ならば、オレから『巫女』を護ってみせろ」
シンが静かに前へ出て、刀を抜いた。鞘走りの音が雪谷に響く。シンを包む殺気は、青く冴えていた。
*
わたしは自分の運命を、嘆いていない。
この世界に攫われていなければ、シンと出会えていなかったのだから。