番外編 0.5 スオウ

 オレとリオウのゲルは、日当りのいい場所にある。
 ヒマな時は幕の前で、胡座をかき刀の手入れをするのが習慣になっていた。
 穏やかな昼下がり、リオウは仲のいいトウリやユーマたちと、中央の広場で転げまわって遊んでいる。それを遠目に見つつ、布で刀を磨いていると、目の前をトコトコと子どもが歩いていた。ユーマと同じ年くらいの少年だ。
 クラン内に子どもはたくさんいるから、取り立てて目を引くわけでもない。けれど10歳くらいの少年が、まだ目も明かないような赤子を抱えていたから、オレは思わず声を掛けた。

「おい、おまえ。そいつをどうするんだ」

 こちらを振向いた。赤茶けた髪で、丸っこい目をしている。少年特有の高い声で答える。

「弟と散歩してるんだ。ずっとゲルの中にいるのは、可哀想だから」
「おまえだけで散歩させてるのか?」
「うん。だってオレしかいないし」
「両親はどうした」
「ふたりとも寝てる」

 眉をひそめた。幼い子供と赤子を放って、昼間から寝てるだと?
 オレの疑心をよそに、少年は嬉しそうに近づいてくる。

「オレ、アスカ。あんたは?」
「スオウだ。そいつを貸せ。オレが散歩してやる」

 いつ首が落ちないか、見ていてハラハラする。赤子を受けとって、立ち上がった。少年――アスカの歩幅に合わせて、ゆっくり歩く。

「こいつ、オレの弟なんだ。マナっていうんだぜ。可愛いだろ」
「猿みたいだが、まあ、可愛いな」
「父ちゃんがつけたんだ。オレの名前は母ちゃんがつけてくれた。すっげーいい意味があるんだってさ」
「そうか。大切にしろよ」
「うん。あんたの親は?」
「いない。5年前に『獣化』したんだ」
「そっか……。ごめん。つらいこと聞いて」

 幼いくせに、気が回る。オレは片腕で赤子を抱き、もう片方の手で低い位置にある赤茶けた髪をくしゃりと撫でた。

「気にするな。昔の話だ。それに天涯孤独じゃない。オレにも弟がいる」
「そうなのか。良かった」

 アスカは笑顔になった。それにつられて、オレも笑みを浮かべる。

「弟はリオウという。おまえより少し年下だが、良かったら仲良くしてやってくれ」
「うん、分かった。あ、オレのゲルここなんだ。そろそろ帰るよ。つきあってくれてありがと」
「落とすなよ」

 赤子をアスカに返し、ゲルの奥に消えていく小さな背中を見送る。
 しばらく外で気配をうかがっていたが、両親が起きて兄弟を迎えている様子はなかった。
 ……大丈夫、なのだろうか。
 胸騒ぎがする。
 アスカの笑顔を思い出して、杞憂であればいいと願った。

「父ちゃん、母ちゃんッ!!」

 布を引き裂くような悲鳴が、ゲルの中から聞こえてきたのは、それからわずか3日後のことだった。
 兄弟と散歩するのが日課になりつつあった。「今日は母ちゃんが起きてごはん作ってくれるんだ」と、嬉しそうにアスカは話していた。いつものように赤子を彼に返し、しばらく外で様子をうかがう。大人の気配が2つ動いて、嬉しそうなアスカの声が聞こえて――そして、悲鳴に変わった。

 刀をつかみ、幕を破るように引き開ける。そこはすでに、地獄に堕ちていた。
 卓上で寝転がる赤子の腹を引き裂いているのは、母親の爪だった。涎がボタボタと垂れる口をカッと開き、彼女はすでにこと切れている我が子に牙を突き立てる。

「あ……あ……!」

 怯えきった声が耳を打った。尻餅をつくアスカを、呻り声を上げながら父親がゆっくりと追い詰める。オレは刀を握りしめた。アスカの目が動き、オレを捕える。

「やめて」

 震えながら、首を振った。

「やめて、殺さないで」

 砕けるほど、オレは奥歯を噛みしめた。
 すでに獣化した父親が、鋭く伸びた爪を我が子に振り下ろす。アスカの目が絶望に染まった。オレは横薙ぎに刀を払い、背後から父親の胴を真っ二つに斬り裂いた。
 ドッと血潮が迸る。見開いたままのアスカの目を、頬を、手と足を、真紅に染めぬいた。

「父ちゃん」

 ぽつりとつぶやきが落ちる。同時に父親が自身の血の海に沈んだ。
 弟を喰らっていた母親が、奇声を上げて兄に襲い掛かる。人形のように力をなくしたアスカを後ろに押しやって、肩から斜めに斬り下ろした。彼女はその場で倒れ伏し、ビクビクと震えたあと、動かなくなった。

「……かあちゃん」

 その声に、胸が引き絞られる。続いてアスカは、力のない声で、マナ、と呼んだ。

 『飛鳥(アスカ)』と『愛(マナ)』。
 きっと両親は、兄弟の誕生を喜び、大切に育てようと思っていたのだろう。
 一族の祖国であるという大地の字を紐解といて。

 かけがえのない、宝物のように。