第三章
翌日、定期船は竜大陸の港に入った。この船には多数の行商人が乗っているため、港前の広場にはすでにたくさんの竜とその番いが集まってきていた。番いが人間の大陸で売られている日用品などを買ったり、ドレスを仕立てたりできるのは、月に二回ある定期市の時だけなのだ。また、この時番いは家族や友人と楽しいひとときを過ごす。
ヴァルにエスコートされつつ、ローゼは船のタラップを降りた。竜の港は人間のそれと同じような造りだった。いや、それよりも立派かもしれない。小綺麗な倉庫が建ち並び、オープンカフェのコーヒーショップが華やかにパラソルを広げている。番いはみな美しく着飾り、竜はりりしく壮健で、己の番いを愛しげに見つめていた。
レイが感心したように言う。
「立派な港だな。さすが竜族だね」
「お褒めにあずかり光栄だ」
「しかし少し騒がしいのが過ぎるのではないかね。こんなに賑やかなところでは、ローゼが疲れてしまうよ」
ハンネスがきょろきょろしながら苦言を呈した。ローゼは父の腕に自身のそれを預けながら微笑む。
「お父様、船旅はいかがでしたか?」
「う、うむ。まあ悪くはなかったが……船室も快適だったしね。ローゼ、おまえはどうだったんだい?」
「えっ、あ、はい。わたしもその……快適でした」
昨日のことを思い出してしまって、ローゼはしどろもどろになってしまう。なんだか父親を裏切っているような気持がして、罪悪感が膨らんだ。
ヴァルの案内で広場を横切り、馬車道まで出た。その短い道のりの間で、ローゼは他の竜や番いたちがこちらに注目しているような気がしてならなかった。
(やっぱり竜王陛下だから皆さんがじっと見るのかしら)
けれど王が来たからといって、竜たちが全員その場で平伏したり、臣下が祝辞を述べたりはしないようだ。人間の国王とはずいぶんと違うらしい。
ヴァルは馬車道に停められていた大きな箱馬車に近づいていった。御者席には十代半ばほどの竜の少年が乗っている。
「俺の屋敷まで頼む」
「族長も乗ってくんですか? 竜化しないの?」
「少し事情があるんだ。ああ、番いの家族とその使用人もいるから、もう一台用意してくれるとありがたい」
「ふうん、了解でっす! あっそうそう、番い発見おめでとう! 大陸中この話題で持ちきりですよ!」
少年は明るく笑った。王に対してずいぶんとフランクだ。しかも、陛下ではなく族長と呼んでいる。
「なにしろ十五の時から探し続けて、もう三十六っすもんね! おっさんですよおっさん! もうみんな、族長には番いが来ないってあきらめモードだったんですけど、ここへきて一発逆転かわいらしい娘っこじゃないですか! ほんっとーによかったですね族長!」
「いいから早く出発の準備をしろ」
ヴァルは耳を少しだけ赤らめつつ少年を促している。
一方ローゼは、やっぱり長い間探させていたのだと申し訳ない気持ちになり、その隣でレイが「そうか……三十六はおっさんか……」とややショックを受けた様子で呟いていた。
大きな馬車に揺られてしばらく。ローゼたちはヴァルの屋敷に辿り着いた。
中心部の賑わいから少しだけ外れにある、緑豊かな庭園。この庭が、とにかく広かった。奥の方に屋敷が見えるのだが、その規模に比べて、とにかく庭園が立派だ。馬車はそんな庭園を突っ切って、屋敷へ向かう。
ハンネスが眉をしかめた。
「こんなにも庭ばかりを広くさせて、土地の無駄遣いじゃないのかい」
「竜化した時、狭い庭だと不便だからだ。それに大陸に棲む竜は百頭ほどしかいない。土地は充分足りている」
ヴァルがそう解説した。百頭。それはずいぶんと少なく感じる。
屋敷の中は、船でレイが言っていたとおり、人間のそれとほとんど同じだった。ヴァルはローゼたちに、客間や衣装室、食料庫に至るまで案内をしてくれた。おかげで衣食住には申し分ないことが分かった。
指摘という名の文句をぶつぶつと零していた父に対しては、ヴァルがていねいに解説していた。重箱の隅をつつくような文句にも誠実に対応してくれているのを見て、ローゼは心の中で大きく感謝をしたものだ。
夕食はなんと、ヴァルが手ずから作ってくれた。料理は得意とのことだった。竜族は屋敷に使用人を置かないため、自分のことはすべて自分でするという。
ヴァルの手料理は文句のつけようがなく美味しかった。オードブルのサラダに温かいスープ、ソーセージの盛り合わせに車海老のムニエル。食後のコーヒーも、ヴァルが淹れてくれた。
「だいたいのことは俺がするが、必要であれば侍女や女中を住み込ませてかまわない」
とヴァルが言ったので、二人の侍女と三人の女中を残していくことになった。
夜、定期船の最終便が出る時刻になり、父と叔父はそれに乗り込んでいった。父は涙ぐみながらローゼを抱きしめて、「早く戻っておいで」と告げた。ローゼはためらいがちにうなずきながら、父の背を撫でた。
屋敷に戻る時は、ヴァルが背から黒い翼を広げて、ローゼを横抱きにして屋敷まで運んでくれた。最初は怖かったが、星空は地面で見るそれと比較にならない美しさだった。感嘆の声をもらすローゼに、ヴァルは嬉しそうな表情でキスを落とした。
二階のバルコニーに降りて、室内に入る。ここはどうやらヴァルの寝室のようだ。四柱式の寝台と、二人がけの長椅子にテーブルが配されている。所々に置かれた燭台の火が、夜の闇を薄めていた。
「ヴァル様はいつ頃からこの広いお屋敷に住んでいらっしゃるのですか?」
「十五だ。竜はそれくらいになると親元を離れて家探しを始める。つまり、番いを探し始める時期だ」
「男の方(かた)が結婚するにはずいぶん早いと感じるのですが、そういう決まりなのですか」
「いや、はっきりと決まっているわけじゃない。竜によって前後する。その……いわゆる生理的な発露が起こった時が独り立ちの時期なんだ」
「?」
ローゼは首を傾げる。ヴァルはせき払いをして話題を変えた。
「ところで寝室なのだが、お父上は別々にするようにと強く仰っていたな」
「はい」
「けれど俺は、おまえと同じところで寝たい」
ストレートな言葉に、ローゼの頬が熱くなった。
「あの……でも」
「船内でも伝えたが、子を孕ませるような行為はしない。というより、竜の行為は人間のそれとは少しだけ異なる。少しだけというか……少しと言うには語弊があるのかもしれないが」
「そうなのですか?」
ローゼはにわかに不安になった。それに気付いたのか、ヴァルは素早く彼女を抱き寄せた。
「心配するな。おまえに苦痛を与えるような方法ではない」
詳しく教えてもらいたい思いにかられたが、こうしてたくましい体に抱き込められていると、全身が安心感に包まれていく。
(男の人は、こんなにも力強くて優しいものなの)
ただ温かいだけではない。包み込む大きさも、抱きしめる力強さも、ローゼには知らないものばかりだった。
竜に心の底から愛されて、幸せに暮らす。
それが人間の少女たちの憧れだということを、ふいに思い出した。
「愛してるローゼ。おまえがいれば、他になにもいらない。おまえを生涯大切にすると誓う」
唇が重なる。
夜の月がバルコニーから光を降ろしている。
やがて口付けは深まり、彼の大きなてのひらが、ローゼのさらさらした髪に潜り込んだ。静寂に熱い吐息が絡みついていく。思考が混濁していき、体すべてを彼にゆだねた、その時である。
軽いノック音が、室内に響いた。
「誰だ?」
口付けをほどき、ヴァルが不機嫌な声で扉を見やる。ローゼは意識がぼうっとし始めていたが、すぐ我に返った。
「あ、侍女だと思います。わたし、いつも寝る前に飲み物を運んでもらっているのです。ごめんなさい」
「ああ、そうだったのか。かまわない、俺が出よう」
ヴァルはすぐに甘く相好を崩し、ローゼのひたいにキスをする。扉を開いて侍女に応対し、トレイを片手に扉を閉めた。
トレイの上には湯気のたつマグカップがふたつと、金色の液体の入った瓶が乗っている。それをテーブルに置きながら、ヴァルは首を傾げた。
「これはなんだ?」
「ホットミルクとはちみつです。これを混ぜるとおいしいんですよ」
ローゼは瓶のふたを開けて、銀のスプーンではちみつを掬った。ひと匙ずつホットミルクに落として、くるくると掻き混ぜる。ほんのりと甘い香りが室内に漂った。
「ほら、いい匂いだと思いませんか?」
「……そうか? おまえの匂いの方が」
「え?」
「いやなんでもない。そうだな、甘くていい香りだ」
「ヴァル様もよろしければ」
ローゼは琥珀色の瞳で微笑みながら、マグカップをヴァルに差し出した。ふたり並んで長椅子に座り、ホットミルクを口に含む。
「うん、うまいな」
「でしょう? お母様が好きな飲み物だったのだそうです」
とろりとした甘みとほのかなはちみつの香りが混ざり合って、ローゼの体と心を温めてくれる。父親から教えてもらったこの飲み物を寝る前に飲むことが、ローゼの日課だった。
ヴァルがローゼを見つめながら、ミルクを口に含む。
「……母君(ははぎみ)が?」
「そうです。お話ししたとおり、わたしを産んで一年後に熱病で逝ってしまいました」
だから母親の記憶はローゼにいっさい残されていない。屋敷に飾られた肖像画が、ローゼが知る唯一の母の姿だった。
「だからこのホットミルクを母が好きだったと聞いて、わたしも大好きになったのです。我ながら単純だなぁって思うのですが、けれど本当に美味しいでしょう?」
頬をくすぐる湯気の感触が心地いい。ローゼは微笑みを浮かべた。白くとろりとしたミルクは、いつの時もローゼに優しい。
「これを飲むと、落ち着いてぐっすり眠れるんです」
けれど、どうしてだろう。これを口に含むと、胸の奥が少しだけ痛む気がするのだ。小さなトゲで一回だけつつかれたみたいに、ほんの少しだけ。
ヴァルは無言でローゼを見つめていたが、やがて優しく微笑みを浮かべた。
「ああ、どことなく安心する味だな。俺も毎晩飲むことにしよう」
ヴァルはすべて飲み干してから、ローゼをそっと抱き寄せる。
「とろりとして甘くて……まるでおまえの肌を舌で愛でた時のようだ」
「も、もうヴァル様。お母様がお好きだった飲み物なのに、そんないかがわしい表現を使わないでください」
「いかがわしい? どうしてだ? かわいいおまえに似たものが、いかがわしいわけがない」
唇が塞がれる。やや深いキスだった。ちろりと薄い皮膚をくすぐられて、ローゼはぴくんと肩を震わせた。
「おまえは愛らしく、清廉だ。こんなにもかわいい者を、俺はこれまで見たことがない」
ヴァルはいつも過大評価をするので、ローゼはいたたまれなくなってしまう。けれど彼の瞳は真剣そのもので、愛しさが溶けているように綺麗に光っていて、その言葉が嘘ではないと告げているのだ。
ヴァルはもう一度甘いキスを贈ったあと、囁くように言った。
「飲み終わったら、寝台へ行こうか」