翌日から、竜大陸のお試し生活期間が始まった。
最初は緊張していたローゼだったが、身の回りのことはこれまでどおり侍女や女中がやってくれたので、特に不便に思うこともなく、逆に肩すかしだったくらいだ。
ヴァルは自己申告どおり一人でなんでもこなせた。十五歳で独り立ちして、使用人もいないという環境であればそれも当然かも知れない。食料調達――いわゆる狩りだ――から調理、洗濯、屋敷や庭の手入れに至るまで、家事すべてを完璧にこなしていく姿に感嘆せざるをえなかった。
とはいうものの、さすがにローゼ自身の下着類を彼に洗ってもらうのは恥ずかしい。だから洗濯は女中が請け負うことになった。料理が得意な女中も連れてきていたので、これ以降、ヴァルがキッチンに立つ回数が激減した。
竜は狩った動物の生肉をそのまま食べられるのだという。若い竜は気にせずそうしてしまうが、独り立ちした竜はいつか番いを迎えたときのために、調理済みのものを食べる練習をするらしい。
唯一不便だと感じたのは、野菜類の少なさだ。竜は栽培をしないため、収穫できない。木の実やキノコを気まぐれに穫ってくる程度で、あとは魚と肉が中心だった。
そのためほとんどの番いは庭に畑を作り、野菜を栽培しているのだという。ローゼは近所に住む番いにガーデニングの方法を教えてもらい、種を撒いた。
また、女中からパンの焼き方や料理の仕方を教わった。それをきっかけに、料理の楽しさを知った。近隣の番いが開く料理教室にも足を運ぶようになり、友達が増えた。
出掛けの際はヴァルがだっこして飛んでくれたが、彼がいない時は馬に乗った。乗馬は子女の嗜みだったので、ローゼも実家の庭で練習していたのが役に立った。
「ローゼの作ってくれた料理は本当に美味いな」
と、ヴァルがいつも褒めてくれるからさらに嬉しかった。
ヴァルは、ローゼの前では亜麻布を一度も外さない。慎重に気を遣ってくれていた。顔に鱗が出ることは、船内以来一度もなかった。
また、ヴァルには竜の友人も当然ながら多かったが、ヴァルは彼らにローゼが鱗を苦手としていることをきちんと説明してくれた。そして、他の竜がいる場では、ローゼに必ず付き添ってくれた。
竜と番いが集まって、ガーデンパーティが開かれたことがあった。その時、ヴァルの一番の友人パトリムパスと話す機会があった。
彼は、竜族には珍しい甘めの顔立ちを和ませながら、ローゼに言った。
「まれに番いを見つけられないで一生を終える竜もいるんだ。そういう竜は、可哀想で見ていられないよ。だからきみがヴァルのところへ来てくれて本当に良かった。ヴァルはいいやつだし、腕も立つから、きっときみは安心して幸せに暮らせるよ。保証する」
パトリムパスは、ローゼがお試しでここへ来ていることをきっと知らされているのだろう。ローゼが曖昧に笑みを浮かべると、彼は優しく瞳を細めた。ヴァルが他の竜と話をしているすきに、小さく告げる。
「大丈夫。見ていたら分かるよ。きみはヴァルのことが好きだ。そうだろう?」
ローゼは頬を赤くしてしまった。それを隠すように、両手で覆う。
(ヴァル様は、わたしをとても大切にしてくださる)
夜ははちみつを垂らしたホットミルクを飲んでから寝台に入る。そこでローゼは毎晩のように、甘く愛された。
一応最初は七枚のドロワーズを重ね履きしていたが、三日目に雨が降り、洗濯が追いつかなくなった。ローゼは迷いつつも一枚履きにした。七枚でも一枚でも、結局脱がされてしまうことは同じなのだ。
ヴァルの口付けや指使いは淫らで情熱的だった。ローゼは彼の大きな体に抱き込められながら、何度も絶頂を迎えさせられた。
息も絶え絶えにぐったりとするローゼを、熱にとろけたような双眸で見下ろしながら、ヴァルは言う。
「ローゼ。おまえの瞳はまるで媚薬だ」
頬を撫でる手は熱い。彼の奥底に、滾るような欲望をローゼは感じ取った。
「おまえの愛らしい琥珀を見つめていると、昼日中(ひるひなか)でも抱き寄せて、素肌に触れて啼かせたくなる」
甘く烈しい睦言は、幾夜を経ても慣れることなくローゼの心を震わせる。
(ヴァル様はたくましくて、頼りがいがあって優しくて、おそばにいると胸がきゅっとつかまれるように痛くて、けれどそれが幸せで)
けれど竜だ。
婚姻を結べば父が嘆き、そしてローゼが恐れる鱗を持つ竜なのだ。
もつれた糸がローゼの体に巻き付いていくように、ローゼは身動きするどころか、心の向きすら自分で決めることができなかった。
そうして日々は過ぎ、明日は再度父たちが訪問する日がやってきた。ローゼが竜大陸へ渡って、二週間が経とうとしていた。
明日に備えて、今日一日をどう過ごそうかと、ローゼがそわそわする気持ちを持て余していた時だった。
「今日は早くに狩りが終わったんだ。昼を食べたら少し遠くに出掛けないか」
ローゼは喜んだ。近くを一緒に散歩したり、ガーデンパーティーに連れていかれることはあっても、遠出することはなかったからだ。
(明日はお父様とレイ叔父様がいらっしゃる日だし)
もしかしたら、実家へ連れ戻されるかもしれない。父に強く出られたら、ローゼは条件反射で従ってしまう可能性がある。
バルコニーで彼に身をゆだねた。ローゼを横抱きにして、ヴァルは背から翼を広げた。
春の青空を遮り、なめらかな黒が広がる。この皮膜のような翼を、ローゼは好きだった。
バルコニーの柵から空へと舞い上がる。ローゼの金色の髪が風に攫われた。ヴァルはローゼにあまり風圧が掛からないよう、しっかりと抱きしめてくれている。
「今日も狩りはお一人でされたのですか?」
風の音に負けないよう、ローゼは声を張り気味にする。ヴァルはローゼを見下ろした。
「ああ、そうだ。しかし近いうちにリムとともに狩りをしなければならなくなると思う。あいつの番いの懐妊が分かったんだ。サポートをしなければならないのでな」
「パトリムパス様の奥様が!」
それはとても喜ばしいことだ。ヴァルの親友であるパトリムパス――リムの番いとは、ローゼも仲良くしてもらっている。
二週間過ごして分かったことだが、竜王は人間の国王とずいぶん違う。人間の国王は何人もの家臣にかしづかれ、政や戦を行い、税を徴収する存在だ。けれど竜王はそういうことを一切しない。その上、狩りは単独で行うため集団を指揮したりもしないのだ。
それでは、竜王が王たりえる理由はなんなのか。ローゼは彼に聞いてみたことがある。
「そもそも王というのは古来の人間がつけた呼称だ。実際は王というより獣集団(けものしゅうだん)のボスに近い。それも、有事の際にしか機能しない役職だ」
「有事?」
「例えばこの大陸の近海には巨大な蛸(タコ)が出る。大陸へ来る定期船を沈める怪物だ。俺たちはそういうものを排除する。その時先頭に立ち指揮を執るのがボスだ。その他にも、巨大な鷲(ワシ)や八本の足で空を駆る馬がいる。やつらは竜大陸を荒らし、子どもの竜や番いを捕食する。そういうやつらを追い払う時の指揮官だ」
つまり竜王とは、外敵から身を守るための中枢機能ということだ。国王というわけではないので、竜たちはヴァルのことを「族長」や「ヴァル様」と呼ぶ。リムのように近しい竜は、尊称をつけずに呼んだりもする。
「ほら、着いたぞ」
草の上に降り立ち、ヴァルは言った。
ここは街の東に広がる森の中である。ローゼの目の前には、広大な湖が広がっていた。
「まるで海みたい!」
「そうだろう。この大陸は火山でできているんだ。だからこういう大きな湖ができたりする。海の近くには温泉もあるぞ。今度連れて行こう」
「おんせん……名前だけは聞いたことがあります」
「野外にある天然の風呂のことだ」
「不思議なところですね、竜大陸は」
キラキラした湖をのんびりと半周したのち、ローゼたちは丸太で作られた腰掛けに並んで座った。
鳥の渡る声がする。春の風が爽やかに吹き込んで、ローゼは体の中が綺麗になっていくような心地がした。
「ここの生活には慣れたか?」
優しく尋ねられて、ローゼはどきりとした。
「はい――とっても楽しいです」
「不自由な思いをしてはいないか」
「はい。ヴァル様がいつも気を回してくださるおかげです。ありがとうございます」
「おまえのためならなんだってするよ」
やわらかな微笑みに、ローゼは胸を打たれた。だから、ずっと聞けずにいたことが口をついて転がり落ちた。
「どうしてそこまで……竜にとって番いとは、いったいなんなのですか?」
ヴァルの想いを疑ってかかるような質問だ。もしかしたら彼は、気を悪くしてしまうかもしれない。
けれどヴァルは真剣な表情で考え込んだようにしたあと、慎重に答え始めた。
「竜にとって番いは、生涯でただひとりの伴侶だ。生々しい話になるが、恐らく竜の生殖機能は複雑にできていると考えられている。番いとは、その分野に限って説明すれば、竜の精を受け止める素養のある女ということになる」
確かに生々しい話だ。しかし説明を求めたのはローゼなので、勉強するつもりでしっかりと消化した。
「竜はオスしか生まれない。そして番いはその生涯で、竜の子を一頭産む」
「一頭だけ、ですか?」
「竜の子はどうやら受胎しにくいらしい。素養のある番いですらそうなのだから、番い以外の女が受胎することはほぼ不可能だろう。だから竜は匂いで番いかそうでないかを見分ける能力が発達した。竜はそもそも、数が少ない。番いを求めてやまないのは、絶滅の危機を回避するためについた特性だと考えられている。――しかし事実、竜の数は年々減っている」
竜の数はずっと増えず、むしろ少しずつ減っているのだという。
「まれに、番いを見つけられない竜がいる。見つけても、竜の花嫁になることを拒む番いがいる。だからどうしても竜の頭数(あたまかず)は微減してしまうんだ」
「竜の花嫁になることを、拒む……」
ローゼがぽつりと零すと、ヴァルは苦笑した。