23 最後通告

「ええ。アランは、詩人のように繊細な心を持ったひとなの。そういうところが大好きよ。守ってあげたいと感じた男性に、人生で初めて出会えたの」

「その想いをつらぬかなければ、あとで絶対に後悔する。悩んだり泣いたりするのは、いまできることをすべてやりきってからだ。ジーナはいま、なにがしたい?」

 ジーナは、瞳を潤ませながらフィンを見上げた。

「アランに会いたい。会って、それでもあなたが好きって言いたい」

 幼なじみのひたむきな想いに、フィンはほほ笑みを浮かべた。

「なら、そうすればいい。ルガート卿の屋敷まで送っていくよ」

「ありがとう、フィン」

「うまくいかなかったときにはいつでも話を聞くからな。ジーナが許すなら、いつまでたっても煮えきらないアラン・ルガートの尻を引っぱたいてやってもいい」

 ジーナはくすくす笑ったあと、幼いころ何度もそうしたように、ぽすんとフィンに抱きついてきた。

「本当にありがとう。フィンがいてくれてよかった。ずっと昔から、大好きよ」

「俺もきみをたいせつに思っているよ。小さいころから、その思いはいまも変わらない」

 もう年ごろなのだから不用意にこういうことをしてはいけないと、日ごろからフィンはジーナにはよく言い聞かせていた。けれど、今回はしかたがない。
 フィンは、ゆるく弧を描くジーナの髪をなでた。

「勇気をだして。ジーナはかわいくていい子なんだから、かならずうまく――」

 そのとき、カサリと芝を踏む音が聞こえてきた。
 だれか来たのかと思って、ジーナの体を離した。それからフィンは、振り向いたその先にたたずんでいたひと影を見て、息を飲んだ。

「あ……」

 シュゼットは、とまどったように一歩うしろへ下がる。その背中を支える位置に立っていたのは、フィンの友人のシェインだった。

「わたし、天気がいいからお散歩しようと思って……。そうしたら偶然シェインさんに会ったから、いっしょに」

「シュゼット」

「フィンは……ジーナさんと、いっしょだったんだね」

 そのとき、シュゼットの瞳が涙で潤んだ。黒曜石のような瞳が悲しみに染まるのを見て、フィンはとっさにシュゼットの腕をつかんだ。

「シュゼット、きみはもしかしたら勘ちがいをしているのかもしれないが、俺とジーナはただの」

「わかってる、から、離して、フィン」

 シュゼットに手を振りほどかれて、フィンは目を見開いた。

 シュゼットは、陽気に誘われてのんきに公園へ出てくるのではなかったと後悔していた。人生でいちばん見たくなかった場面に出くわしてしまったからだ。

 侍女とともに散歩を楽しんでいたら、フィンの友人であるシェイン・ベイカーに偶然会った。何日か前に、フィンを介して舞踏会で話しただけの仲だったが、シェインはとてもひとなつっこい性格をしていたため、すぐに打ちとけることができた。

 若者のあいだで最近はやっているボードゲームのことや、ピクニックランチにぴったりの川辺の場所など、いろんなことを教えてもらいながら歩いているうちに、シュゼットはとある光景を目にした。

 少し脇にそれた木陰で、若い男女が仲むつまじげにしゃべっている。シュゼットはすぐに、彼らがフィンとジーナであることに気がついた。大好きなひとの姿と、ずっと気に病んでいた少女の存在を見まちがえるはずがない。

「あれ、あいつら。すみっこでコソコソと、なにやってるんだろう」

 となりでシェインが首をかしげた。フィンとジーナはまだこちらに気づかない様子だ。

 シュゼットの足はその場に立ちどまってしまって、ちっとも動いてくれなかった。しかし、ふたりのほうへシェインが歩いていってしまったので、鈍い動きながらも、シュゼットは彼についていった。
 そのとき耳にしたフィンとジーナの会話は、シュゼットを動揺させるのに充分すぎるものだった。

「フィンがいてくれてよかった。ずっと昔から、大好きよ」

「俺もきみをたいせつに思っているよ。小さいころから、その思いはいまも変わらない」

 ひとけのない木陰で、互いを思いやるようにそっと抱きしめあいながら、ふたりは幸せそうなほほ笑みを浮かべていた。

(――信じないと)

 シュゼットが、真っ先に感じたのはその思いだった。

(フィンを、ちゃんと信じないと)

 けれど、吹っきれたはずの前世が黒い腕を何本も伸ばすように、シュゼットを包み込もうとしてきた。シュゼットが思わずあとずさって、その音に気づいたのか、フィンがすぐにジーナから体を離してこちらを振り向いた。

 きっとシュゼットは、ひどくこわばった顔をしていたのだと思う。慌てた様子のフィンがシュゼットの腕をつかんできて、「シュゼットは誤解している」というようなことを告げてきた。

 誤解。そう、誤解だ。だから傷つく必要なんてない。
 仲のいい幼なじみ同士のふれあいだというのなら、ちょっとしたやきもちをやくくらいでいいはずだ。

 けれど、シュゼットは気づいたら、フィンの手を振りほどいていた。

「シュゼ――」

「ごめんなさい。ちょっと、頭のなかがぐちゃぐちゃになっただけだから、大丈夫。昔の失恋を、思い出しちゃって」

 振りほどいたはずみで乱れた髪に、こまかく震える指を差し入れて直しながら、シュゼットは笑う努力をした。
 視界の端で、シェインとジーナがとまどったような表情をしている。

 ジーナはついさっきまで、フィンに抱きよせられていた。その光景が、頭から離れてくれない。

 ――どんなに好きでも、最後には振られる。

 今度こそ本物だと確信しても、恋は、強制的に終わってしまう。
 フィンが好きだと気づいて、フィンもそれに応えてくれて、結婚の約束を交わして――、それでやっと、前世を吹っきることができたと思ったのに。

(ああ、やっぱりまだ、だめだったんだ)

 前世に傷ついたことと、いま見た光景が、シュゼットの頭の中をかき乱した。どうしていいのかわからない。なにを言えばいいのか、なにを思えばいいのかすら、わからなくなってしまった。

 フィンの手がふたたび伸ばされる。

「シュゼット。俺の話を聞いてくれないか」

「離してって、言ったじゃない!」

 叫ぶように言って、シュゼットはフィンの手を打ち払った。
 それをきっかけにして涙がぽろぽろとこぼれてしまう。
 フィンは眉をきつくよせた。

(本当に、わたしはだめだ……。ろくにフィンの言葉も聞かずに、ヒステリックに怒鳴るなんて最低だ)

 シュゼットの過去の恋愛を、フィンはとても気にしていた。それなのに、昔のことをまた口に出してしまった。
 自分が情けない。でも、フィンの顔を見ることができない。

 シュゼットは手の甲で涙をぬぐいながら、しゃくりあげた。

「ごめんね、フィン。いまはだめなの。いまはフィンといっしょにいたくない。ごめんね」

「……。いっしょにいたくない?」

 フィンの声が低くかすれている。声音が怒りをはらんでいるような気がして、シュゼットは肩を震わせた。

「怒らないで。ごめんなさい」

 顔を両手で覆って、シュゼットは弱々しく訴える。心が乱されすぎてしまって、どうにもならない。

「俺は怒ってなんかいないよ、シュゼット」

 フィンの声が聞こえて、でもシュゼットは顔を覆ったまま首を振った。

(いまは、むり――)

 一秒でも早く、ここから逃げだしたい。
 胸を占めるのは、そればかりだった。
 こんなみっともない自分を、ジーナやシェイン、そしてなによりもフィンに見られたくない。

 しばらくの沈黙のあと、フィンがこちらに近づいてくる気配がした。びくっとおびえてあとずさったとき、顔を覆っていた指先に、やわらかなぬくもりがふれた。シュゼットの動きがとまる。

「……いいよ。わかった」

 フィンに口づけられた指先を、シュゼットはゆっくりと顔からはずした。すぐ近くにフィンの瞳があって、優しい青色のなかにはせつなさが揺れていた。

 シュゼットは、心がひどくしめつけられて――だからこそ、フィンの両手がそっとシュゼットの頬をはさんで、親指で優しく涙をぬぐっても、振り払うことを忘れてしまった。

「わかった。いまは、きみを逃がしてあげる」

 シュゼットの瞳から、涙の粒がまたこぼれ落ちる。すべらかな頬を伝っていくそれを、フィンは、よせたくちびるでそっと受けとめた。
 フィンのふれたところから、じんとしたあたたかさが広がる。こわばっていた全身から力が抜けて、そうしたら彼のくちびるが下にすべってシュゼットのそれに重なった。

 ふれるだけの淡い口づけは、離れてからあとも、甘い余韻だけをシュゼットに残した。フィンは、青く澄んだ瞳を優しくゆるめてシュゼットを見つめている。
 甘い低音で、ささやいた。

「でも次は、捕まえるよ」