序章
竜は、溺れるように番(つが)いを愛する。
生涯でただ一人、運命によって定められた番いを全力で愛し、守り抜く。
それは抗えぬ竜の本能であり、本質であった。
番いとの出会いは、一般的に、十五の歳を数える頃にある。しかし、現竜王リンドヴァルム、齢(よわい)三十六――
彼はいまだ、己の番いを見つけることができないでいた。
*
クラッセン男爵の掌中の珠(たま)、自他共に認める箱入りの一人娘、リーヴェローゼ=シェイファーは、見上げるほどに大きく壮麗な門を前に、ため息をついた。
これからこの門を超えて、庭園の中央へ行かなければならないことは分かっている。けれどどうしても足が前に進まない。
ここまで乗ってきた馬車は、門衛に厩舎の方へ連れていかれてしまった。もう後戻りはできない。
(往生際が悪いわ、ローゼ)
自分自身にそう言い聞かせて、ローゼは花びらのような唇を引き結ぶ。人々でごった返す庭園に目を向けた。
その瞳は、とろけるような琥珀色をしている。
一方で、春の風に揺れる髪は絹糸のようだった。まっすぐに背中まで伸び、毛先はやわらかく巻かれている。うすい金色は、穏やかに日差しを受け止めていた。
白い首すじやすんなり伸びた腕、コルセットで固められた腰はいささか細すぎる感がある。しかしレースをふっくらと盛り上げる胸もとには、優しげな少女らしさがあった。
花の咲くこの季節、家の者たちはローゼを春の妖精に見立てて賛辞を贈る。
(みんなお世辞が上手なのだから、困ってしまうわ)
ローゼは先月、十六を数えた。
通常、貴族の子女はこの頃に社交界デビューを果たす。
しかしローゼは今年のデビューを見送ることにしていた。それは、彼女を溺愛する父の意向による。
ただ、十六を超えたにもかかわらず屋敷に引きこもってばかりいると、心ない噂が立ちかねない。そこで父ハンネスは、この場に娘を連れてきたのだ。
毎年春に、人間の側の王が、城の庭園を開放して、若い竜たちをもてなす華やかなパーティー。
『竜の花嫁探し』の場である。
「これは大変な騒ぎだなぁ」
ローゼの背後から、中年の男性が歩み出た。ローゼの父、ハンネス=シェイファー男爵である。
彼はハンカチでひたいの汗を拭った。
「竜の番いになる確率はとても低いらしいから安心して来てみたものの。こんなにも人の集まるパーティーだとは思わなかったよ」
四十一歳になる彼は、娘に似て色白かつ痩身だ。顔立ちは優しげに整っているものの、寄せた眉間のあたりに神経質な気弱さが垣間見える。ローゼは彼を励ますように手を添えた。
庭園の中央には巨大な噴水が造られている。そこには猛々しい竜の、大きな彫像が置かれていた。人間の王が、いかに竜族を尊重しているかを見てとれる光景だ。
その噴水の周囲に置かれているのはガーデン用のテーブルである。真っ白なクロスを掛けられ、色とりどりの料理が並べられて、会場を盛り立てていた。
その間で談笑する少女たちの華やかさといったら。
(みなさん、本当に綺麗で愛らしくて)
ドレスに身を包んで瑞々しい微笑みを振りまく彼女らを、ローゼは眩しい思いで見つめた。
竜の花嫁探しの場には、出自関係なく、五歳から一五歳ほどの少女が集まる(彼女らの両親も参加している)。当然、煌びやかなドレスを用意できない平民の少女も多数存在した。
しかし彼女らには、質素なドレスを補ってあまりある輝きがあった。明るく快活な生気に満ち溢れているのだ。
そんな少女たちと楽しげに言葉を交わすのは、長身の男性らである。歳は十代半ばから二十代後半くらいだろうか。優雅な王城の庭園にあって、彼らは一見して異質だった。
みなよく日に焼けて、隆々とした上半身を晒している。衣服は皮の腰布のみ、靴すら履いていないようだ。その代わり、重みのある宝石類をいくつも身につけていた。
首から下げたり、手首や足首に巻いたり。ターコイズやルビーなど、色の濃い大ぶりの天然石は、引き締まった男の体を美しく洗練させている。
彼らに選ばれた花嫁は、至上の幸福を手にするという。
食物連鎖の頂点に立ち、世界の中央に位置する大陸に棲まう、気高く雄々しい種族。
竜族である。
ローゼはこの時、彼らの姿を生まれて初めて目にした。
「人間の男性と……全然違うのね」
「そうか?」
ローゼの言葉を拾い上げたのは、叔父のレイだ。
「両足で歩いて、目が二つあって、口が一つ。俺たちと何も変わらないじゃないか」
レイ=シェイファーは父の弟である。今年で三六を数える。ローゼは彼の端正な面差しを見上げた。
「でも、人間の男性はあんな風に野性的ではないもの」
「ローゼはそういう男に心惹かれる歳かな?」
レイが口の端に笑みを浮かべる。その時、庭園の方から歓声が上がった。
そちらに目を向けると、竜族の若者に手を引かれ、嬉しそうにはにかむ少女の姿があった。
周囲の人々が次々に祝いの言葉を投げかける。印象的なのは、若い竜の幸せそうな表情だ。自分の番いとなった少女が愛しくて仕方ないというような眼差しをしている。
竜は己の番いを、匂いで判別するという。一定の距離まで近づいて匂いを感知すれば、あとはその源(みなもと)を見つければいい。
竜の若者に見いだされ、愛されて幸せになる。女の子なら一度は憧れる恋物語だ。けれどローゼはさまざまな理由から、そういう感情を持てずにいた。
「レイ叔父様。わたし、竜の方(かた)たちに惹かれているわけではないわ」
ローゼは会話の続きを口にする。レイは片眉を上げてローゼを見下ろした。
「わたしは、竜が怖いの」
ローゼは門の内側へ足を踏み入れる。遅れてレイの声が返された。
「ローゼ。あの時のことは、もう」
「それなら今すぐ屋敷へ帰ろうじゃないか」
割り込んだのは父のハンネスである。
「なにも無理して参加する必要はないさ。なあローゼ」
「ここまで来て往生際が悪いぞ、兄さん」
レイは顔をしかめた。
「兄さんがそんな風だから、ローゼはいつまでたっても辺境の田舎屋敷から外に出られないんだろ」
「しかしレイ。ローゼは大切な一人娘だ。ローゼを竜大陸へ嫁には出せん。なあそうだろう、ローゼ」
「そうだとしても、いつかは誰かの奥方になるんだ。ローゼが恋した相手が長男だったら、兄さんはローゼを家から見送らなきゃいけない」
「そ、そんなことは許さん! ローゼは婿を取って、ずっと私の家にいるんだ!」
「お父様」
ローゼはそっとハンネスの腕に手を添えた。
「そうねお父様。無理してパーティーに参加する必要はないわ。今日はこの辺りでお暇(いとま)しましょう」
ハンネスの顔がとたんに明るくなった。
「そうだろう、そうだろう! 早くここから離れよう。さあレイ、門衛に頼んで馬車を呼んできてくれ」
レイは呆れたように肩をすくめた。
「どうせこうなるとは思っていたけど、まあ、会場まで来られただけ進歩かな。お疲れ様、ローゼ」
レイに背を促され、ローゼは踵(きびす)を返した。もともとすぐに帰るつもりだったから、予定より少し短い滞在時間になっただけだ。
ローゼが迷いなく門の内側から一歩踏み出そうとした、その時である。
庭園の人垣が大きくざわついた。ローゼは驚いて振り返る。直後、ざわつきの渦中、噴水のすぐ前方から、大きな翼が一息に広がった。
蝙蝠(こうもり)の翼のような薄い皮膜、色は青空にむしろ潔(いさぎよ)いほどの黒。そのなめらかな美しさに、ローゼは一瞬で目を奪われた。
その翼が一度だけ羽ばたいて、持ち主を竜の彫像の上へ引き上げる。周囲に風が起こり、人々はさらにざわついた。彼の足先が、彫像の頭頂に触れる。
赤銅色(しゃくどういろ)の髪――。
「誰……?」
ローゼはぽつりと呟いていた。
視界が太陽の光に一瞬眩んで、やがてくっきりと、彼の姿を映し出す。
太く長く伸びた男らしい手足と、たくましく鍛え上げられた胸筋。金銀、紅玉、翡翠など、色鮮やかな宝石が、浅黒く日に焼けた素肌を彩っている。目に掛かるか掛からないかまで伸ばされた髪は、しずかに燃える赤銅色だ。
皆が一斉に彼を見上げているのに、彼はまったく意に介していないようだった。堂々とした佇まいには、他者を寄せ付けない威厳を感じる。
その上信じがたいことに、彼の目はどうしてか、ローゼの方をまっすぐ見つめているようだった。
滾るように熱い碧玉の双眸に、ローゼは心を鷲づかみにされる。
「あ……」
震えるような畏れが湧き起こった。よろけるように後すさると、背中をレイが支えてくれた。
その時竜が、なにかを言った気がした。
ローゼはハッとして顔を上げる。ぶ厚い風が打ち寄せて、次の瞬間ローゼは力強い腕に奪い取られていた――空へ。
お腹のあたりをぐんと押し上げられるような感覚に、ローゼは悲鳴を上げた。
「ローゼ!」
レイが地上から、切羽詰まった声を上げる。すると竜は、ローゼを両腕で固く抱きしめながら、燃え上がるような目でレイを睨み下ろした。
その恐ろしさに、ローゼは声もなく震え上がる。それに気づいたのか、竜はふと視線をローゼに移した。
強い光を帯びた双眸とかち合う。先ほど見せた彼の怒気が、その時するりと解(ほど)けていった。代わりに現れたのは、密度の高い熱量だ。
(なんて烈しくて――そして、綺麗な)
美しい竜だった。
ローゼはいっそ茫然として、彼を見つめた。
すっと通った鼻すじに、日に焼けて引き締まった頬、形のいい唇。そしてなにより、彼の全身から放たれる、堂々たる威厳。
その彼に、ローゼは熱い視線で見つめられていた。あたりは静まり返り、ゆっくりとした羽ばたきの音しか聞こえない。
ふいに彼の片手が動き、ローゼの頬に指で触れた。羽毛で触れるような優しさだった。
碧玉の双眸が、なぜか切なげに歪められる。
(苦しそう……?)
ローゼは恐る恐る声を掛けた。
「あ、の……?」
彼はわずかに目を見開いた。切なさがゆっくりと溶け消えて、優しい表情にとって変わる。
「おまえの名は?」
男らしい低音。初めて聞く彼の声に、ローゼの体内が小さく波打った。
「ローゼ……、リーヴェローゼ=シェイファーと申します」
頬に、彼の大きなてのひらが置かれる。ローゼの心臓が跳ね上がった。
彼の肌は熱を帯びている。親指が動き、彼女の唇に触れた。花びらのようにやわらかな皮膚を、彼の固い指が辿っていく。その感触に、ローゼはぞくりとしたざわめきを覚えた。
彼はローゼを見つめていた。彼の碧玉はとろりとした熱を孕んでいる。ローゼはとっさに恐怖を感じて、小さく首を振った。
「も、もう降ろしてくださ」
「ローゼ」
彼に初めて名を呼ばれた。その甘やかな響きに、ローゼは目を見開く。
「おまえを愛している、リーヴェローゼ」
なんのためらいもなく、彼はそれを口にした。
会ったばかりのローゼに、信じられないような言葉を。ゆるぎない確信を込めて。
「やっと見つけた。今までどこに隠れていた? 俺のかわいい、愛しい番い」
ローゼの頭の中に空白が落ちる。
(番い……?)
ローゼの混乱をよそに、彼は陶然とした笑みを浮かべた。
「愛しているよ、ローゼ」
触れていた親指が、そっと下唇を押し下げた。わずかに開いたそこを、彼の唇がゆっくりと塞いでいく。
「……ッ」
ローゼは目を見開いた。彼の舌が、宥めるようにローゼの唇を撫でる。その熱さ。
ローゼの体が震えた。
生まれて初めてのキスだった。
確かめるようにそっと擦れ合う薄い皮膚。そこから彼の熱が体内に甘く広がっていく。
(わたし、竜と、口付けを)
そう知覚すると同時に、地上から茫然とした声が上がった。レイだ。
「まさか――あれは、竜王リンドヴァルム……?」