けれど――と、シュゼットは、前向きな気持ちで思う。
結局は、自分の心持ちを変えなければいいわけだ。
フィンとは、あたりさわりのない内容の会話を交わしておけばいい。カンのよさそうなひとだから、それでシュゼットの気持ちを察してくれるだろう。
(わたしがなびかないとわかったら、次の女性にすぐに気を移すに決まってる)
心が小さく痛むのを、よくない兆候だとシュゼットは思う。
(好きになっちゃだめだ)
どうせ傷つく。
あの痛みだけは、もう経験したくない。
シュゼットは、今夜の舞踏会のために用意された薄紫色のドレスに身を包んで、エントランスに出た。
やわらかな満月が紺碧にかかっていて、その下にたたずむ彼の姿を美しく照らしだしている。
「シュゼット」
フィンは、十日前と変わらない笑顔でシュゼットに手を差しだした。
この笑顔と、優しい声がくせものだ。
フィンはすでに、シュゼットの両親へあいさつをすませたらしい。彼のとなりには両親の姿があった。ふたりとも普通にしているが、目の奥にはシュゼットを心配している色がにじんでいる。
(気を強く持たなきゃ)
シュゼットは、眉をよせながら彼の手に自分のそれを重ねる。父が声をかけてきた。
「よろしく頼むよ、フィン君」
「はい。今宵は僕にとって、これまででいちばんすてきな夜になりそうです」
フィンの返答に、バーナードは、安堵したようにうなずいた。
シュゼットはというと、ごく自然なしぐさで腰にまわされたフィンの腕が気になってしかたがない。
箱馬車に入るよううながされて、両親に見送られながら、シュゼットはフィンとともに舞踏会場へと出発した。
侯爵家嫡男の乗る馬車は、華美すぎず上品なつくりだ。椅子には手触りのいい天鵞絨(ビロード)がはられていて、つめものがたっぷり入っている。
シュゼットは、さりげないふうを装いながら、フィンからなるべく離れるために斜向(はすむ)かいに腰かけた。それから先手必勝で声をかける。
「フィンさま。このたびはエスコートの申し出をしていただき、どうもありがとうございました。たった一夜をすごしただけのわたしにお声をかけていただき、とても驚いております」
フィンは、まばたきをしたあと困ったようにほほ笑んだ。
「いや。俺が、きみに会いたかったから手紙を送ったというだけだ。むしろ、受けてくれてありがとうとこちらがお礼を言いたいよ」
フィンの笑顔は、初めて会ったときとかわらない。こちらの警戒や緊張をときほぐすような包容力がある。
「それに、驚かれるのも心外だな。言ったろう? きみに会いたいから、手紙を書くと」
シュゼットは、警戒心を強く保ちながら、そっけない態度を続けた。
「寝物語だと、認識しておりましたので」
「ふふ、きみは俺をそういう男だと思っているんだね」
フィンに気分を害した様子はない。
「その誤解はおいおい解いていくとして、シュゼット。今日のきみは、前会ったときよりもよそよそしいね」
「先日は酔っておりましたので、フィンさまに対して無礼な口をきいてしまいました。申し訳ございませんでした」
「わかりやすい嘘をつく」
ほほ笑んだまま、フィンは長い脚を組んだ。シュゼットはぎくりとする。
「嘘などついておりません」
「きみは俺を警戒しているんだろう? 恋愛はもうこりごりと言っていたから、本当なら、今夜の誘いは断りたかったはずだ」
あのとき、知らせなくていいことをこのひとに打ち明けてしまった。シュゼットは、酒に酔った自分を後悔する。
「ちがいます。あのときは、酔っていたせいで思ってもいないことを言ってしまったんです」
「けれどきみは、心配してくれる両親の手前、俺の申し出を断りきれなかった」
シュゼットの言葉を流すかたちで、フィンはさらりと言った。ふと、彼の表情にわずかに自嘲がにじむ。
「そうと知っていて、きみに手紙を送ったんだ」
「どうしてそんなこと」
「ごめん。こうするしかなかった」
フィンの腕が伸びて、シュゼットの手を取った。手袋に包まれた互いの手が重なり、シュゼットはどきりとする。
「会わなければ、きみに俺を好きになってもらえないだろう?」
馬車がガタンと揺れた。
フィンの、青色の瞳が熱を秘めてシュゼットを見つめている。
「わ、わたしは、もう恋愛なんて」
恋愛なんてしないし、あなたのことを好きにならない。
そうはっきりと、告げなければならないことはわかっている。
けれど、フィンの瞳がそうさせてくれない。強い力でひっぱられるように、目を――心を、そらすことができない。
「はじめてきみを抱いたとき、俺は、きみのことがかわいくてしかたなくて、この上なく優しく抱いたつもりだった」
このひとは毎回、とんでもない爆弾を落としてくる。
「けれど、きみのことを振ったという、見も知らぬ男のことが――きみが恋していたという男の影がチラついて、嫉妬心が出てしまったことも否定しない。これから先ずっと、きみの瞳に俺だけが映り続ければいいのにと、欲深い願いを持ってしまった」
「どうしてそこまで。理由がぜんぜんわからないです」
シュゼットは、混乱しながら首を振った。フィンは静かに笑みを深める。
「信じられない?」
「だって、一度会って、ほんの少ししゃべっただけなのに」
「あの夜、きみは俺を救ってくれたんだよ」
小さな窓から降る月光に、フィンの金髪が淡く照らしだされている。
「きみは知るよしもないだろうけれど、たしかに俺を救ってくれたんだ」
ずきりと心臓がきしみをあげて、シュゼットは眉をゆがめた。
(失恋の痛手から、わたしがあなたを救ったってこと?)
以前から続いていたこの痛みが、彼と再会してからさらに強くなった。その事実に、シュゼットは追いつめられそうになる。
「ああ、またその顔だ」
フィンが、苦く微笑する。
「過去の男がきみをそんな顔にさせるの?」
「ちがう……、ちがいます」
「許しがたいな」
ささやかれて、彼の手が頬にふれる。
「きみが好きだよ」
痛いくらいに鼓動が早まっている。シュゼットはもう、どうすればいいのかわからなかった。
どうすればいいのかわからなくて、ただ、顔をうつむけた。
「シュゼット」
甘くかすれる声が肌をなでる。
「顔をあげて」
あらがったはずだった。
けれど、気づいたら、下から掬いあげられるようにくちびるを重ねられていた。
「っ、……」
「十日前、俺の部屋で夜をすごして、そのあと体は大丈夫だった?」
くちびるを少しだけ離して、フィンは問う。青い瞳に気遣わしげな色が揺れていて、シュゼットはどきりとした。
「大丈夫、でした」
「体に変調はない?」
そういえば、昨日、月のものが終わったばかりだ。けれどそんなことを男性であるフィンに告げる必要はない。
シュゼットは、数秒沈黙したあとにうなずいた。
「大丈夫です。なにもありませんでした」
「……そう。よかった」
「重ねてお聞きになるなんて、フィンさまは心配性ですね」
そう言うと、フィンは、自嘲するような笑みをにじませた。
「となりにおいで」
シュゼットの腰に彼の腕がからんで、力強く抱きよせられる。
斜向(はすむ)かいに座っていたはずのシュゼットは、かんたんに彼のとなりに移されてしまう。
「だめ、フィンさま……っ」
「フィンでいい」
性急な様子で告げて、再度くちびるが重ねられる。とっさにフィンを押し返そうとしたけれど、たくましい両腕に抱きすくめられて身動きがとれなかった。
口づけが、さっきよりも深い。
「や、っあ、フィンさま――」
「迎えにいったとき、きみをひとめ見たときから伝えたかったことがある」
くちびるを甘く吸い上げて、フィンは、かすれた声で告げる。
「今夜のドレス姿も、夜露に光る紫陽花のようでとてもきれいだ」
熱い恋情をはらむ瞳に、シュゼットは縫いとめられる。
くちびるがまたふれて、熱い腕に抱きしめられて、シュゼットはあらがうすべを失った。