20 意外な伏兵

 好きなひとと両思いになれた幸福と、いつものように最後には振られてしまうかもしれないという恐怖のあいだで揺れながら、シュゼットは眠れぬ夜をあかした。

 この不安は、どうすればなくせるのだろう。
 侍女に着替えを手伝ってもらいながら、疲れ果てた頭で考える。

(普通は、プロポーズされたら幸せでいっぱいになるはずだよね)

 マリッジブルーというものもあるらしいが、なんとなくちがう気がする。

(ジーナさんのことをフィンにずっと聞けずにいるのが、いけないんだよね……)

 告白されて、二回も抱かれて、プロポーズまで受けたのだから、気になることはなんでも聞いてしまえばいいと思う。
 けれど、それができないのは怖いからだ。

(ジーナさんに振られた直後に、わたしを抱いたのはどうして?)

 この問いに対するフィンの回答を予想すると、いちばんマシなのがこれだ。

『最初は失恋の傷を癒すためにきみを抱いたんだ。その最中に、本気になってしまった』

 フィンの性格をねじ曲げているという自覚はある。不動の貴公子を体でほだせるほどの魅力が自分にはないということも、承知している。
 けれど、これがシュゼットの(前世をふくめた)経験から導き出せる、もっともマシな答えなのだ。

(負け組の意識が、抜けてくれないんだよね……)

 最初に抱かれたあとに気づいたが、フィンは、涼しげな外見とはうらはらに、おそろしく情熱的な男性だ。

 好きな女性が許す姿勢を少しでも見せたら(フィンは、そういう心理を読むことにとても長けている)、自身の情動に歯どめをかけることはしない。そして、最後までかならず責任をとるだろう。

(『生涯をかけて待つ』なんて言ってたけど、謙虚に聞こえてじつはものすごく攻めの姿勢だよね)

 もう一方で、ジーナのことについて質問したときの、いちばん悪い回答も考えてみる。

『本当のことを言うと、まだジーナを想う気持ちが残っている。けれどきみのこともきらいじゃないから、ジーナと結婚できないくらいならきみとしたい』

 またしても、フィンの人格を曲解しすぎているとは思う。でも実際に、シュゼットは、前世においてこういう男性の身勝手なふるまいに傷つけられてきたのだ。

 気鬱の晴れないシュゼットは、気分転換に庭に出た。考えすぎて頭のなかがごちゃごちゃになっている。侍女を下がらせて、花壇のあいだをひとりで歩いた。

 目に染みてくるような青い空を見上げていると、少しだけ気分がすっきりする。

『――シュゼットは、シンプルな言葉が好きだったね』

 ふいに、フィンの言葉がよみがえってきた。
 そうだ。ごちゃごちゃと悩まずに、シンプルに考えればいい。

 自分の気持ちはわかっている。フィンのことが好きだ。
 じゃあ、フィンは?
 いまはきっと、シュゼットのことを好きでいてくれていると思う。
 愛されているのかもしれないとも思う。

「信じてもいいのかな……」

 フィンと結婚するのだと決めたのだから、こんなふうにうじうじ悩んでいたらだめだ。
 シュゼットは、からまりきった思いを吐きだすように大きく息をついた。

(もう、悩むのはナシ!)

 決めたのだから、前に進まなければいけない。
 今度こそ、好きなひとと幸せになるために。

「あら、どうしたのシュゼット。お散歩?」

 ふいに背後から声がかかった。振り向くと、母がいる。
 シュゼットは、レオノーラに笑顔を向けた。

「うん。ちょっと悩みごとがあったから、散歩でもしようかなと思ったの。でも、もう吹っきれたからいいの」

「悩みごと? ……もしかして、フィンさんのこと?」

「そんなところかな」

 シュゼットは、笑顔のままで言った。

「でももう大丈夫。ちゃんと決めたから、大丈夫よ」

「悩んでいることがあるならなんでも話すのよ」

 レオノーラは、心配そうな表情になっている。

「あなた昨日、朝から部屋にこもっていると思ったら、突然『公園に行く』なんて言いだして。夕方、フィンさんに連れられて帰ってきたときには涙のあとがあったでしょう? 母さまと父さまはとても心配しているのよ」

「ごめんなさい、ちょっといろいろあったの。フィンの取り巻きの女の子たちに囲まれていやみを言われてしまったりして」

「ええっ?」

「でも、言い返してやったわ。今後、つっかかってくることはないと思う」

「シュゼット、あなたそんな――」

 レオノーラは絶句したようだった。やがて、気を取り直したように言う。

「フィンさんは、理想的なお相手だと思うけれど、いちばんたいせつなのはあなたが幸せになれるかどうかなのよ。それを忘れないで、シュゼット」

「ありがとう、お母さま。でも大丈夫よ、心配しないで」

 フィンといっしょに幸せになる。
 いまはそのことだけを目指していこうと、シュゼットは心に決めた。

 しかし、問題は思わぬところから生まれてきた。
 その知らせを耳に入れたとき、シュゼットはぼう然とした。

「保留? ブルーイット家からの婚約の申し入れを保留にしたって、どういうことなの、お父さま」

 書斎に駆けつけたシュゼットを、バーナードは厳しい顔で見返してくる。低い声で告げた。

「シュゼット。おまえ、本当にあの青年でいいのか?」

 シュゼットは目を見開いた。
 貴族の子息と子女の婚姻は、当人同士だけのものではない。家どうしのものでもある。伯爵の位を持つシュゼットのロア家も例外ではない。名家中の名家、ブルーイット侯爵家であれば言わずもがなである。

 シュゼットからプロポーズの承諾を得たフィンは、まず自分の父親に報告した。フィンの父は了承し、この話を進めるためにシュゼットの父に連絡を取った。

 シュゼットの両親はフィンを気に入っていたし、なによりブルーイット家からの婚約の申し入れだ。ロア家がこれを退けることは、常識と照らしあわせても考えられない。

 だからこそ、シュゼットはまさか、こんなところでつまずくとは想像もしていなかったのだ。

「あの青年でいいのかって……。お父さまは、フィンのことを気に入っていたのではないの?」

「確かにフィン君はいい青年だ。ブルーイット家もしっかりしたところだし、いい縁談だとは思う。けれどシュゼット。おまえは本当にフィン君といっしょになりたいと思っているのか?」

「な――なりたいわ。なりたいに決まってるじゃない。フィンと、お互いの想いを確認しあった上での話だもの」

「レオノーラから聞いたのだが、おまえ、フィン君を慕っている女性らにからまれたそうじゃないか。そのときフィン君はおまえをちゃんと守ってくれたのか?」

「あたりまえよ。フィンがちゃんと場をしずめてくれたわ」

「しかし言い返したのはおまえのほうだったんだろう? ちょうどあのとき、私の友人があの場に居あわせていたようなので話を聞いてみたのだが、一方的におまえが責められて、言いあいになったのちに、やっと、フィン君が仲裁に入ったそうじゃないか」

「それはそうだけど、でも、ああいうのはフィンが強引に抑えつけると、あとでもっとやっかいなことになるの! わたしがはっきりした態度を示してからじゃないと、向こうになめられて、フィンに見つからないようなところでねちねちいじめられることになるのよ。フィンはそれを計算して、うまくおさめてくれたの」

「計算か。なるほどな。うわさどおりだ」

「うわさ?」

 シュゼットは眉をよせる。

「なに、うわさって」

「シュゼット。おまえ、フィン君が不動の貴公子と呼ばれていることを知っているだろう?」

「ええ。お父さまから聞いたもの」

「その二つ名が、別の意味を持っていることは知っているか?」

 シュゼットは首を振った。
 不動の貴公子とは、社交界で彼に並び立つ者のない紳士のなかの紳士であるという意味だ。それ以外に思いつかない。

 そういえば、フィン自身はこの名をきらっているようだった――。

「不動の貴公子。『心を動かさない』という意味だ」

 シュゼットは、バーナードの言葉の意味をつかめない。

「わからないわ。どういうこと?」

「これは私も、最近聞いた話なのだがな。頭で計算してむだを省き、自分に利があると予測できることにしか動かない。つまりは合理主義者ということだ。女性関係に関しては、放っておいても向こうからよってくるから、自分から動くようなことは決してしない。労力がむだだからだ。不動の貴公子とは、そういう裏の意味があると聞いた」

「ちょっと――待ってよ」

 シュゼットはがく然とした。

「待ってお父さま。それ、ちがうわ。そのうわさはまちがってる。フィンはものすごく情熱的なひとなのよ。合理的だとか、むだなことをしないとか、そういうのは全部うそよ」

「しかし、現にフィン君は頭で計算しておまえをかばわなかったじゃないか。普通の男なら、好きな女性がからまれているときは体が先に動くものだ。いてもたってもいられなくなるものなんだ。しかしフィン君にはそれがなかった」

「それは気性や考えかたのちがいというだけでしょう? どうしてそのことでフィンがそしりを受けるのか、ぜんぜんわからないわ……!」

「いいかシュゼット。私とレオノーラが危惧していることはこうだ。フィン君は、もしかしたらひどく冷たい人間かもしれない」

 今度こそシュゼットは、言葉を失った。
 シュゼットの様子をこまかく見つめるようにして、バーナードは続ける。

「フィン君と出会ってからというもの、おまえは、落ち込んだり悲しんだりすることが増えた。私は、おまえのそういう姿を見ることにこれ以上耐えられん」

「それは……わたしのほうに、問題があるから」

「おまえに問題があるはずないだろう」

 バーナードは眉間にしわをよせた。

「親ばかの意見かもしれないが、おまえはまっすぐ優しい子に育った。少々がさつなところはあるが、愛嬌で充分カバーできている」

 本当に親ばかである。シュゼットは頭をひとつ振って、気を取り直した。

「フィンは冷たくなんてないわ。とっても優しいひとなのよ」

 初めて会ったときに感じたのだ。
 このひとは、ひとの心を思いやれる優しいひとなのだと。

「気がまわりすぎて、賢すぎるところがあるから、周囲からはいつでも冷静で乱れないひとみたいに見えるかもしれない。でも、冷たい人間だと決めつけるのはあまりに短絡的だわ」

「しかし、おまえはいつも不安そうな顔をしているじゃないか。親の目をごまかせると思うな」

「不安なんて、これっぽっちも感じてない!」

 言いきって、シュゼットは肩で息をしている自分に気づいた。嘘をついたから、息が乱れたのだ。
 バーナードの目に、心配そうな色が浮かぶ。

「……とにかく、婚約の話は保留にする。もう少しフィン君の人柄を見極めて――」

「フィンが、そのあだ名をいやがっている理由がやっとわかったわ」

 目の奥が熱くなって、気づいたら涙がこぼれていた。
 あんなにも優しいひとを、一般的な型にはまらないからといって冷たい人間というレッテルを貼るなんて、信じられない。

(きっとやっかみもあるんだ。絶対にそう)

 周囲がよりよくなるように、いつも気を配っているひとなのに。

「シ、シュゼット大丈夫か。泣かないでくれ、シュゼット」

 シュゼットは、オロオロし始めた父親をにらみつけて言い放った。

「わたしからすると、不動の貴公子よりも、動きまくる脳筋男のほうがよっぽどいやよ! ものすごーく苦労させられそうだもの!」

「の、のうきん? とはなんだ?」

「お父さまみたいなひとのことよ!」

 バーナードは大ショックを受けたような表情になった。シュゼットは、怒りにまかせて部屋を出る。

(フィンに会いにいかなきゃ)

 ドレスにもつれそうになりながら廊下を走って、シュゼットは袖で涙をぐいっとぬぐった。
 婚約話を保留にされて、どう思っただろう。きっと傷ついている。

(わたし――ジーナさんのことで、いつまでもうじうじ悩んでばかりで、本当に情けないよ)

 わかっていたはずだ。
 フィンの想いを、きちんと感じていたはずだ。
 あの情熱的で優しいひとが、シュゼットをうらぎるはずがないということを、わかっていたはずだ。

 それなのに前世にとらわれ続けて、フィン自身を見なかった。いまこのときを、考えなかった。
 前世に脅かされていたのではない。前世に逃げ込んでいたのだ。
 これ以上傷つきたくないと、逃げ続けていた。

「どこにいくの、シュゼット!」

 玄関の扉をあけてエントランスへ出るシュゼットを、母の声が追いかけてくる。短い階段の下、明るい陽のさす庭園に、一台の馬車が走りきてとまったのはそのときだった。
 ブルーイット家の紋章が刻まれた、二頭立ての箱馬車――

「フィン!」

 駆けよるシュゼットを、馬車から降りてきたフィンは驚いたような表情で受けとめる。シュゼットは、ぎゅっとフィンを抱きしめた。