02 目が覚めたときには、すでに事後でした(求婚つき)

「自分を振った相手を、あんなふうに気遣うことなんてなかなかできません。わたしには、できなかった……」

 前世を思いだして、シュゼットの胸が痛んだ。同時にいよいよ酔いがまわってきて、足から力が抜けていく。
 彼はシュゼットを抱きとめながら言った。

「きみには、過去に想う男が?」

 彼の青い瞳がかげったように見えたのは、気のせいだろうか。

(いけない。前世のことは、だれにも言っちゃいけなかった)

 シュゼット・ロアとして生を受ける前、シュゼットは、日本という国で別の人生を送っていた。
 そんなことを話したって、信じてもらえないに決まっている。頭がおかしい子だと思われるのが関の山だ。

 けれど、彼の澄んだ青色の瞳に見つめられると嘘がつけない。すべて見破られてしまいそうに感じるのだ。
 意識を朦朧とさせながら、シュゼットは、かすれる声で言う。

「過去……なのかどうかは、わからないけど。でも、かなしい思いをしたことは、あります」

「そう」

 彼の、かたちのいい眉がわずかによせられた。

「ばかだな、その男は」

 ぽつりと落とされた独白をシュゼットが理解するより先に、彼はシュゼットを抱え直した。さっきよりも深く抱きよせられたような気がする。
 どきりとして、それから、この状態は危険なのではないかとシュゼットは気づいた。けれどすぐに否定する。

(こんなにすてきなひとが、わたしなんかをどうにかしようなんて考えるはずない)

 自分には、女性的な魅力が皆無なのだ。前世の経験から、シュゼットはそれを充分に思い知らされていた。

「ごめんなさい……わたし、重くて」

「いや、きみは軽いよ。気にしないで」

 ぎゅっと腕に力がこめられた。彼の吐息が首すじにふれて、シュゼットの肩が小さく跳ねる。

「ああ……まずいな」

 低いつぶやきの意味を、シュゼットはつかめない。少しだけ体がはなれて、彼の視線が戻ってきてから、彼は自嘲気味にほほ笑んだ。

「もしかしたらきみは、夜会に出るのはこれが初めて?」

「はい――社交の場に出ること自体が、初めてです」

 ろれつが怪しくなってきた。彼のテイルコートをつかんでいた指から力が失せて、するりと落ちてしまう。

「だろうね」

 軽くため息をつきながら、彼は、すっかり力の抜けたシュゼットを抱き上げた。

「こんな様子で過去にも夜会に出ていたとしたら、きみは無事じゃすまなかった。出席者の独身男に、すっかり食べられていただろう」

 力強い安定感のなかで、シュゼットはゆるゆると意識を手放していく。閉ざされたシュゼットのまぶたに、幾分か低まった声と、くちびるの感触がふれた。

「さて……このかわいい眠り姫を、どうしようかな」

 シュゼットが前世について思いだしたのは、十歳の夏のことである。
 シュゼットの誕生日パーティーがひらかれたとき、シュゼットは、ジュースの入ったグラスを持っていた。それを、ふとしたはずみで落としてしまった。

 グラスの割れる甲高い音が耳をつんざいた直後、シュゼットは前世を思いだした。
 前世では、日本という国で女性として生を受け、二十二歳という若さで死を迎えたのである。

 なぜこのタイミングで思いだしたかというと、それは前世の死因によるものだと考えられる。
 日本で会社員(社会人一年目にあたる)として働いていたシュゼットは、コンビニで雑誌を立ち読みしていたときに、正面のガラスから突っ込んできた乗用車にはねられた。そのときに聞いた破砕(はさい)音が、グラスの割れる音とリンクしたのだろう。

 シュゼットの前世は、ごくごく平凡なものだった。普通の家庭に生まれ、普通に進学し、そして普通に就職をした。
 特筆すべきことのない無難な人生だったとシュゼットは自分でも思う。――ただ一点を除いては。

(男のひとに振られまくった人生だったなぁ)

 夢うつつのなかで、シュゼットは、前世の恋愛遍歴をぼんやりと思い起こす。
 前世では、好きになった男性には恋人もしくは熱烈に片恋する女性がかならずいた。
 だからずっと振られ続けてきた。

 小学一年生のときに経験した初恋の男の子は、担任の先生に恋をしていた。
 中学校のときに好きになった先輩は、思いきって告白しようとしたその日にサッカー部のマネージャーと付きあってしまった。
 高校時代は、クラスメイトに告白した結果「ごめん、ほかに好きな子がいるんだ」と振られた。その後(ご)彼は、前世のシュゼットの親友とめでたく恋人同士になった。

 やっと付きあうことのできた大学のテニスサークルの先輩は、なんと他校に彼女がいた。シュゼットは、本命ではなく浮気相手だった。

 社会に出てからはもっとひどいことがあった。このことはもう思い出したくもない。

(まともに男のひとと付きあえたこと、なかったな)

 恋愛のプロセスはひととおり経験したが、それが幸せにつながることはついになかった。

(前世では、見た目と性格は特別いいってわけじゃなかったけど、特別悪くもなかったのに)

 友人たちからは、「あんたは男運がないんだよ」といつもなぐさめられていた。確かにそれも一因だったかもしれないが、結局のところ自分に女性としての魅力が欠けていたことがいちばんの原因だろう。

 けれどシュゼットは、前世で、その男性たちに心の底から恋をしていたのだ。
 振られたときの痛みは、転生したいまでも生々しく残っていた。ほかの記憶は曖昧なのに、どうしてか失恋のかなしみだけは深く刻み込まれている、

 もしかしたらそれは、これまでの人生で最大の失恋を経験した直後に死んでしまったことが関係しているのかもしれない。

(あんな思いするのは、もういやだ)

 恋愛なんて、つらいことばかりだ。
 もう恋なんてしたくない。
 簡単なことだ。だれかを好きにならなければ、失恋しなくてすむのだ。

(幸い、今世のわたしはお金持ちのお嬢さんだし。結婚しなくても、生きていくのに困らない。浮気相手にされて、まちがって子どもができちゃったとしても、女手ひとつで育てることだってできる)

 もちろん、最後のほうを実行する気はまったくない。

 ロア伯爵家のひとり娘であるシュゼットは、両親から溺愛されて育ってきた。つややかなブルネットを腰まで伸ばし、おなじ色の大きな瞳と透けるように白い肌をした少女であった。
 万人の目を引くような華やかさはないけれど、黒目がちな瞳とすんなり伸びた手脚が印象的で、神秘的な雰囲気があると言われたことがある。

 だからといって取り澄ましたふうもなく、素直にまっすぐ育ったので、両親は「社交界に出ればすぐにでも縁談が舞い込む」と思っていたようだ。肝心のシュゼットに結婚願望がないなんて、想像もしていないだろう。

 今回の夜会の出席は、両親の強いすすめがあって、しぶしぶ出席したものだった。十七歳になるシュゼットは、社交の場に出なければならないころあいだったのである。

 けれど、男性からダンスの誘いを受けても、言い訳をして断ってしまう。それが何回か重なって、もうごまかしきれなくなったので、付添人である叔母の目を盗んであの庭へ逃げ込んだのだ。

 しかし、まさかその場所で、他人の失恋現場に出くわすとは思ってもみなかったけれど。

(つくづくわたしは、失恋と相性がいいんだね)

 自分自身にあきれてしまう。

(でも、振られていたあの男のひとはすてきだったな。イケメンだったし声もきれいだったし、なにより優しいひとだった)

 ああいう男性と恋ができたら、幸せになれるのかもしれない。
 けれど、彼が自分を選んでくれるはずがない。だって、あんなにすてきな男性なのだから。

 ただ――そういうひとでも、振られてしまうのだ。
 恋愛は難しい。
 わたしにはむりだ。

 今世においてシュゼットは、早々にして恋をすることをあきらめていた。

 小鳥の声がきこえる。
 閉じたままのまぶたの向こう側が明るい。
 もう朝がきたのか。目を覚まさなければと、シュゼットはぼんやりと思う。

「ん……」

 起きなければならないのに、重たい頭痛がまとわりついているせいで、まぶたが持ち上がらない。
 頭だけでなく、体全体がだるかった。とくに下肢の部分がしびれていて、感覚が曖昧だ。

 シュゼットは寝返りを打とうとして、できないことに気がついた。
 体になにかが巻きついている。背中と腰のあたりに、だれかの熱い素肌が――両腕がふれている。

 だれの?

「おはよう、シュゼット」

 甘い響きの声とともに、やわらかななにかがひたいに押しあてられた。シュゼットは一度に目が覚める。

「え……ええ!?」

「寝顔もとてもかわいかったよ」

「ね、寝顔? えっ、待って、ちょっと待って、あなた、昨日のイケメンさん……?!」

「その呼びかたも悪くはないけれど、昨夜はちゃんと俺の名前を呼んでくれたじゃないか。ほら、このピンク色をしたくちびるで」

 くちびるを指先でたどられて、シュゼットは、ゾクゾクするような感触に腰を抜かしそうになる。

「ま、待っ……!」

「ん?」

「あ、あの、わたし、昨夜のことぜんぜん」

 なにも覚えていない。ここがどこで、どうして彼といっしょに寝ているのか見当もつかない。
 青年は、きれいな顔に笑みを浮かべたまま告げた。

「覚えていなかったとしても、この状況を見れば昨夜なにがあったかくらいわかりそうなものだろう?」

 シュゼットから血の気が引いた。
 たくましい両腕に囲われた自分の体を――真っ白の上掛けが申し訳程度にかけられている自分を、おそるおそる見下ろしてみる。

 素っ裸だった。

「な……な……!」

「むり強いはしなかったけれど、言い訳もしないよ」

 こんな状況なのに、彼は、じつにさわやかにほほ笑んでシュゼットの頬に口づけてくる。

「昨夜のきみはとてもかわいかった。あんなふうに愛らしく情熱的に求められれば、男の理性はかたなしだ」

「も、求め……?! だ、だれが、どんなふうに」

「具体的に言おうか? 俺の下で瞳を潤ませながら『もっとちょうだい』っておねだりを」

「ストーップ! そこまで! そーこーまーでー!!」

 あまりの羞恥に耐えきれず、シュゼットは手足をジタバタ動かした。すると青年の腕がゆるんだので、がばっと起き上がる。上掛けを体に巻きつけながらシーツの上をあとずさった。

「わ、わたし、ぜんぜん覚えていなくて。なんでこんなことになってるのか、ぜんぜんわからない……!」

 言いながら、涙まで浮かんでくる。彼も起き上がって(当然のごとくなにも着ていない)、髪をかきあげながら苦笑した。

「その反応を、予測していなかったわけじゃないけれど――」

 彼の手が伸びてきて、シュゼットのつややかな黒髪をひとふさ取る。男らしい大きな手に、シュゼットはどきりとした。

「少しこたえるな。俺は昨夜、やっと自分の生きるべき道を見つけたと思ったのに」

 彼の青い瞳がせつなさをはらんだ。
 きれいな面差しに朝の光が射して、目がそらせなくなる。
 シュゼットはやっとのことで、声を押しだした。

「道、って?」

 ふと、彼は微笑する。

「きみのことだよ、シュゼット。でなければ、昨夜のようなことはしない」

 彼がなにを言おうとしているのかわからない。
 混乱しすぎて潤む視界に、真摯な瞳をした彼が映っている。

「俺は、いっときの感情でこんなことはしない」

 手のなかの黒髪に、彼はくちびるをよせて口づけた。肌にキスされたわけではないのに、やわらかい熱がふれたように感じた。

「今日これ以降も、きみのそばにずっといさせてくれないか」