07 好きになってしまう前に、逃げなくちゃ

「ブルーイット家の男とは話ができて、私とはできないというのか! なんという権勢欲に満ちた女だ!」

 突然怒号をむけられて、シュゼットは恐怖に凍えた。そのとき、ごく冷静な声がフィンから発せられた。

「伯爵は、ずいぶんと酔っていらっしゃるようだ」

 涼しげな声に冷笑がまじる。

「これ以上の醜態をさらす前に、お控えになったほうがよろしいのではないですか」

「き、きさま……! きさまには関係ないだろう、そこをどけ!」

「大声を出さないでください。僕のたいせつな小鳥が怯えてしまう」

 流れるようにフィンがそう言と、ひそかに聞き耳を立てていた様子の貴婦人たちが、うっとりとしたため息をついた。

「まあフィンさま、かよわいレディを身を挺してかばわれて……」

「対する紳士は、短気で有名なクライトン卿ですわよ」

「舞踏会で、無粋に騒ぎ立てるようなことはおやめになっていただきたいですわね。その点フィンさまのスマートなことといったら」

 波が広がるように、男のほうに非難が集中していく。彼がひるんだところを狙いすましたように、フィンがおだやかに言った。

「どうぞお引き取りを」

「――失礼する!」

 男は忌々しげに舌打ちをして、ホールから立ち去っていく。シュゼットの視界から彼の姿が消えて、こわばりっぱなしだった指先から力が抜けた。フィンの上着から手を離す。
 フィンがこちらを振り返った。

「シュゼット」

 両頬をてのひらで包まれて、気遣うように見つめられた。

「もう大丈夫だよ」

 シュゼットはぎこちなくうなずいた。フィンは、青色の瞳を細めて優しげにほほ笑む。

「怖かったね。もう大丈夫だから」

「ごめんなさい、わたし」

 シュゼットの声が震えた。
 前回の舞踏会で、無責任に逃げだしたことが悪かったのだ。

「ごめんなさい。フィンに、迷惑をかけてしまって」

「迷惑なんかじゃないよ」

 フィンは、シュゼットの頬を指先でなでる。

「予想の範囲内だ。どうってことないから、気にしないで」

「予想……?」

「きみが、酔っ払った状態で庭へ逃げてきたと知ってから、次の会で言いがかりをつけられる可能性もあると思っていたんだよ。今回のことはね、シュゼット。どの角度から見ても、百パーセントあの男がいけない。社交界に出たばかりの女の子にたいして、おとなの男としてマナーを失している」

 シュゼットが、それでも落ち込んだ顔をしていると、フィンはいたずらっぽく笑った。

「さて、困ったな。どう言葉をつくしても、かわいいきみの笑顔をとり戻せそうにない。キスをしても?」

「キ……?!」

 なんの脈絡もない提案に、シュゼットはびっくりする。

「ど、どうしてキスなの」

「恐怖心がほぐれるだろう?」

「だめ、絶対だめ」

「そう力いっぱい拒絶されると、むしろ燃えてくるな」

「だめだってば! フィン!」

 抱きよせてくる腕のなかで慌てふためいていると、周囲からほほ笑ましげな声が湧いた。

「あらあら、かわいらしいこと」

「こちらがあてられてしまいますわね」

「なんて初々しいのかしら。わたくしたちも、初恋を思いだしてしまいますわね」

 初恋……?!
 シュゼットは、恥ずかしさに顔を真っ赤にした。これ以上目立たないよう、フィンの腕のなかでおとなしくなる。

「フィン」

「ん?」

「もう、帰りたいんだけど……」

 フィンは、くすくす笑ってシュゼットの背中をなでた。

「そうだね。少し早いけど、おいとましようか」

 帰り道は、行きよりも短く感じた。
 屋敷の前で、フィンにエスコートされながら馬車を降りる。シュゼットの手をとったフィンは、シルクの手袋越しにキスを落とした。

「とても楽しい夜だった。ありがとう、シュゼット」

 暗がりのなかでも、フィンの瞳はきれいに光る。
 シュゼットは、それを見つめるだけで胸がせつなくなるほどになってしまった。

「また会いにくるよ。今度は公園で散歩をしようか。それとも、街でショッピングを? きみが欲しいものを、たくさん買ってあげたい」

 惜しみなくそそがれる好意を、けれどシュゼットは、胸の痛みとともに受け流そうと努力する。

(わたしはどうせ、振られるんだから)

 失恋したばかりのフィンを信じてはだめだ。
 シュゼットは、視線を下へ逃がしつつ答える。

「うん……また、機会があったら」

「――」

 ふいの沈黙ののち、うつむいたシュゼットのこめかみに、あたたかいなにかがふれた。フィンのくちびるだとわかるには、数秒かかった。

「フィン――」

「好きだよ」

 夜にしみこむような声でささやかれて、シュゼットの鼓動が跳ねる。

「好きだよ、シュゼット。俺は、きみが許してくれるなら、今すぐにでもきみと結婚したいと思ってる」

 高鳴る鼓動と、ずきずきと痛む心とを、シュゼットは制御できない。
 フィンの瞳は透明感を増して、誠実にシュゼットを見つめてくる。

「ずっときみの近くにいたいし、近くにいてほしい。毎日きみに会いたいんだ。シュゼット、いまは答えてくれなくていい。けれど、俺の想いは知っておいて」

 とらえられたままの片手が熱を帯び始める。フィンの手がそこから離れて、温もりが遠ざかるのをさみしいと感じてしまった。

(もしかしたら、今世は大丈夫かもしれないじゃない)

 さみしさをかみ殺しながら、シュゼットは思う。

(前世ではだめだったけれど、今世では叶うかもしれないじゃない)

 好きなひとと結ばれて、ずっといっしょにいられる。
 そんな夢のようなことが、叶えられるかもしれない。
 けれど、あの夜の、失恋したフィンのさみしげな表情がよぎってシュゼットをくじけさせる。

 やっぱりだめだ。
 よけいなことを考えてはいけない。

 恋愛をせず、結婚もせず、このままひっそりと生きていく。そういう、当初の予定をくつがえすようなことを考えてはならない。

「ごめんなさい、フィン。わたしは、恋人も、夫も必要ないの。だから、わたしのことは放っておいて」

「シュゼット、でも俺は」

 伸ばされた手を振りはらうようにして、シュゼットはきびすを返した。彼の声が呼ぶのを無視して屋敷のなかへ駆け込む。
 勢いよく扉をしめたら、父と母が驚いたように駆けつけてきた。シュゼットは、その場に座り込みそうになるのをこらえて両親に笑いかける。

「やっぱり、うまくいかなかったわ。フィンさまには、もっとお淑やかでかわいらしい女性がお似あいだと思うから」

 両親は、心配そうな表情で互いの顔を見あわせた。

 一方、屋敷の外では、ひとり残されたフィンが苦笑まじりのため息をついていた。

「また逃げられてしまったな」

 シュゼットは、過去の恋愛で痛い目をみたからもう恋をしたくないのだと言っていた。
 であれば、傷ついた部分を優しく癒すように愛そうとフィンは思っているし、今後、自分が彼女を傷つけるようなことはないと確信している。フィンには、シュゼットを振るような意思は毛頭ないからだ。

(けれど、あの子が俺との恋愛に躊躇する理由はそれだけじゃないな)

 ここが、もっとも頭の痛いところだ。
 フィンは、箱馬車の外壁にもたれながら考える。

(きっと俺が、ジーナに振られたばかりだとあの子は思っているんだろう)

 失恋の傷を癒すために言いよってきているのだと、勘ちがいしているにちがいない。

 その誤解を解くのはたやすい。けれど、いささか問題がある。

「あいつに話をしてみるか」

 つぶやいて、フィンは夜空を見上げた。春の三日月は、明るいけれど傷つきやすそうな色をして、どこかシュゼットのように見えた。