09 一夜の記憶(1)

 ――シュゼット。

 たゆたう意識のなかで、その声をシュゼットは聞いた。
 使い慣れた自分のものとはちがう固さの、ベッドの上だ。

 ――少し水を飲んだほうがいい。起きられる?

 力強い腕に、背中をゆっくりと起こされた。視界に映るのは、薄闇に沈む見慣れない室内だ。

「ここ、どこ……?」

「俺の部屋だよ。さあ、水を」

 ひやりと固い感触がくちびるにふれる。彼の手のグラスから水を飲んで、シュゼットはくたりと腕に身をもたせた。

「大丈夫?」

「ん……頭が、ぼうっとして」

「横になろうか」

 ベッドにそっと戻される。毛布がかけられて、そこではじめて自分がネグリジェに着替えていることに気づいた。

「わたしの、ドレスは……?」

「俺が着替えさせたわけじゃないよ」

 青年はやんわりと言う。

「侍女にやってもらったんだ。このネグリジェは、俺の姉のものだよ。覚えてる?」

「あんまり……」

「舞踏会の最中にきみが倒れてしまったから、ここへ連れてきたんだ。きみの家……ロア家は会場から遠かったし、俺の屋敷は目と鼻の先だったからね」

 そこまで言って、彼は苦笑した。

「自分でも、言い訳じみているとは思うけれど」

 もう少しいっしょにいたかったんだ。
 彼はそうささやいた。シュゼットは、彼のテイルコートに指をかける。

「あなたの名前は……?」

「フィンだよ。ここへ連れていく前に自己紹介をしたんだけど、忘れちゃった?」

 彼は――フィンは、てのひらで優しく頬にふれてくる。
 記憶があいまいで、思い出せない。

「今夜はここで休んでいくといい。きみの付添人には事情を伝えておいたから安心して。明日の昼くらいに屋敷まで送っていくよ」

 言って、フィンはベッドサイドから立ち上がろうとする。シュゼットは、とっさに彼のコートを握り込んでフィンを引きとめていた。

「シュゼット?」

「大丈夫かなって、思って……。失恋して――悲しそうに、してたでしょ?」

「ああ、あれはちがうんだ。ええと、事情があってくわしい説明はできないんだけど、俺は」

「わたしも、好きなひとに振られたときはとっても悲しかった」

 胸の痛みに泣きそうになりながらシュゼットが言うと、フィンは動きをとめた。すこしの間(ま)のあと、気遣うようにシュゼットの髪をなでてくる。

「……悲しかったの?」

「うん。だって、好きだったから」

 混濁する想いに視界がにじんで、涙がこぼれそうになる。
 前世で経験したたくさんの失恋が、いっきに押しよせてきたようだった。

「好きだったから、悲しかったし、さみしかった。わたしにはいつだってだれもいない。それが、いまになってもまだ、さみしくてつらいの」

「……。シュゼット」

 フィンの手が伸ばされて、シュゼットの目尻をなでた。こぼれ落ちた涙をぬぐいとり、フィンは、青い瞳に優しい色を浮かべる。

(ああ、そうだ)

 このひとはとても優しいひとだったということを、シュゼットは思いだした。

「きみはひとりじゃない」

 あたたかい声に、シュゼットの胸がせつなく痛んだ。目を伏せて、首を振る。

「ひとりだよ。もうずっと、この先もわたしはずっと、ひとりなの」

「安心して」

 そえた手の親指でシュゼットの頬をなでながら、フィンはほほ笑んだ。

「きみが眠るまでここにいるから」

 彼は、さみしくて眠れない夜がとてもつらいことだと知っているのだろうか。
 シュゼットは、頬に置かれた彼の手に、自身のそれをかさねた。
 ふれあった肌から、互いの熱がゆっくりと生まれていくようだった。

「フィン……」

 呼びながら彼の青い瞳を見上げて、そうすると、胸の奥がじんと痛んだ。フィンは、一瞬だけ目を見開いたのち、シュゼットから視線をそらさず見つめてくる。

 沈黙が落ちて、そこを埋めるようにバルコニーから淡い月光が差していた。
 ここにいることも、彼と出会ったことさえ幻想のようで、だから、フィンがゆっくりと身をかがめて、シュゼットのくちびるに口づけても、これが現実だとは思えなかった。

 フィンの熱がわずかに離れて、吐息がくちびるにふれる。とろけるように心地よくて、シュゼットは、両腕を伸ばしてフィンの首もとを抱きよせた。

「シュゼット……」

 低くかすれた声が、フィンのくちびるからにじむ。
 ふたたびかさねられると同時に、フィンのたくましい両腕がシュゼットの体にからんで、きつく抱きしめられた。口づけが深まって、じっくりと熱量が増していく。

「ん、ん……っ」

 深く食まれながら、熱くぬるついた舌でくちびるをゆっくりとなめられて、シュゼットは肩を震わせた。彼が、ベッドを軋ませながら乗り上げてくる。

 気づいたら、上から覆いかぶさるようにフィンにくちびるを貪られていた。シュゼットを抱きしめていた手は、いつのまにかシュゼットの両頬を挟むようにしていて、まるで逃げ道をふさいでいるようだ。

 何度も角度を変えられ、くちびるを甘噛みされるたびに、みだらな水音が積もっていく。ぞくぞくとした官能が背すじを駆け下りて、シュゼットはフィンの腕をつかんだ。

「ぅん……、ん、フィン……っ」

「こんなに甘いくちびるは初めてだ」

 口づけをくり返しながら、熱を秘めた声でフィンはささやく。さらに深く口づけられて、薄くひらいた口のなかに彼の舌がねじ込まれてきた。

「ん……っ!」

 熱くざらついた舌に、頬の裏側のやわらかい粘膜をなめられる。味わうように何度もされたのち、奥のほうで縮こまっていたシュゼットの舌を器用にからめとられた
 ちゅくちゅくとこすりあわされ、とろけるような熱がシュゼットの芯を溶かしていく。

「は――、っあ、」

 いやらしい舌づかいと、ぞくぞくするような感触に、シュゼットはたまらなくなった。フィンの胸を押し返そうとしたけれど、のしかかってくるたくましい体はびくともしない。
 舌をちゅっと吸い上げられ、甘く噛まれた。下腹にしびれるような快感が走る。

「あ……っ、もう、や……」

「きみが欲しい」

 色香に濡れた声で、ささやかれた。ごく間近で、熱い恋情をたぎらせた青い瞳が光っている。

「フィン……?」